中山道<揖斐川鷺田橋~加納宿>(瑞穂市~岐阜市)

美江寺宿・・・天正17年(1589年)に豊臣秀吉によって問屋場が設けられ、荷物の中継ぎ業務に当たっていた。宿場として確立したのが寛永14年(1637年)で、東から入ると中程に枡形があり直角に南に折れている。旅人の宿泊も少なく、農家が多く、経営は苦しかった。明治24年の濃尾大地震で宿場全体が壊滅、残った1軒を除き、現在の家屋は震災後に建てられた。
河渡宿・・・小さい宿場であったが、川止めのたびに泊まり客も多く、栄えた。第2次世界大戦で焼失し、旧家は一軒も残らなかったため、かつての繁栄ぶりを偲ばせるもは見当たらない。
加納宿・・・美濃16宿の中で唯一の城下町。徳川家康が慶長5年(1601年)に加納城を築き、翌年、女婿奥平信昌を封じて、城下町として発展した。名古屋街道(御鮨街道)の中継点でもあり、中山道では、本庄、高宮、熊谷、高崎に次ぐ大宿。
美江寺宿から加納宿まで道は狭く、ほとんど歩道がないので歩きづらかったが、加納宿内は一方通行になっており、しかも日曜日だったこともあり比較的車の交通量は少なかった。
なお、地図上の紫線は中山道以外のコースで、他の機会に歩いた分も含めて参考までに表示した。

コース:P駐車地点→38分→①の地点(美江神社)→28分→②の地点(代官所跡)→40分→
     ③の地点(一里塚)→32分→④の地点→28分→⑥の地点→30分→⑦の地点(本陣跡)
     →9分→⑧の地点→18分→⑪の地点(折返し地点)


日付:平成19年4月15日(日)
天候:晴れ
歩行時間:3時間43分(休憩、紫線の部分を含まない)
歩行距離:13.2km(紫線の部分を含まない)


    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.、この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
  い。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
   点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
 (3)高度表示については、約5m~10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい る)。
 (4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

   P 駐車地点【北緯35度23分45秒 東経136度38分40秒】。揖斐川堤防上に駐車。
     呂久から田之上(美江寺宿の西口)に至る街道の両側には、江戸時代初期に植えられた
     松並木が終戦直前まですばらしい景観を保っていた。
   ①美江神社【北緯35度24分42秒 東経136度39分24秒】。美江寺宿の歴史についての説
     明板あり。
     神社の北側の美江廃寺旧地に、明治35年に再建された美江寺観音あり。もとの美江寺観
     音は斎藤道三が稲葉城を築いた後、現在の岐阜市役所北西300mの位置に移した。
     観音堂の説明書によると、この付近のかつての地名は美濃十六条と呼ばれていたと解され
     る。近くには十七条、十八条、十九条など古代の条里制を起源とする地名が残っている。
     ここから150mほど東に、鎌倉時代後期の禅僧で千躰仏(千躰寺に祀られている)の作者
     自然居士(じねんこじ)墓の碑あり。
     また、南東100mの地点には美江寺城址がある。碑は中小学校の校庭内(西側隅)にあ
     る。
     ①の地点と②の地点の中間点南方に「サボテン村」と大きく書いたサボテン農場がある。
     この付近にはたくさんのビニールハウスがあり、色々な種類のサボテンが栽培されおり、
     全国に出荷されているとか。柿の産地とは知っていたが、サボテンとは認識不足だった。
   ②本田(ほんでん)代官所跡【北緯35度24分41秒 東経136度40分31秒】。江戸時代の一
     時期には、このあたりに幕府直轄の代官所があった。
   ③一里塚【北緯35度24分29秒 東経136度42分01秒】。この東側の長良川右岸には
     千本松原公園自転車道が整備されている。忠節橋方面へ向かう自転車道は河渡橋を渡
     って左岸に移動する。
   ④の地点【北緯35度24分49秒 東経136度43分10秒】。美濃三弘法の一つとして、現在も多
     くの信仰を集めている乙津寺の参道入口で、「鏡島弘法 梅寺」という大きな石の標柱が立
     っている。
   ⑤小紅の渡し【北緯35度25分00秒 東経136度42分57秒】。船頭の番小屋は対岸にあり、
     左岸には壊れかかったコンクリートの船着き場があるのみ。今でも運行されており、こち
     らから大声で呼べば来てくれるとか。もともと、各務島弘法の参詣者の利便のために設け
     られたようだ。
   ⑥の地点【北緯35度24分35秒 東経136度44分16秒】。6差路で中山道の案内もなく、まぎ
     らわしいが、どちらから来ても直進すればよい。
   ⑦加納宿本陣跡【北緯35度24分20秒 東経136度45分32秒】。幕末になり中山道の往来が
     頻繁になり、文久3年(1863)には当分本陣が、慶応3年(1867)には当分二の本陣(史
     跡は残っていない)が設けられた。
     150m東の二文字屋は、当時旅籠屋だったが、現在は屋号を引き継ぎうなぎ屋を営んで
     いる。
   ⑧の地点【北緯35度24分21秒 東経136度45分45秒】。中山道と名古屋道(御鮨街道)
     分岐点で、道標がある。
    ⑨加納城址南門【北緯35度23分56秒 東経136度45分36秒】。加納城は慶長5年(1600)
     家康が築かせた城で、旧沓井城地を拡張して築城したもの。明治の初めに廃藩置県に伴
     い取り壊され、本丸跡は、昭和14年に陸軍第51航空師団司令部となり、戦後昭和29年
     ~50年まで自衛隊が駐屯していた。
   ⑩革手城址【北緯35度23分45秒 東経136度45分46秒】。済美高校は道路をはさんで校舎
     が別れているので、校庭に入ることなくこの地点に行くことができる。
     樹木で覆われた小山に、案内標柱と使われていない滑り台や鉄棒等の遊具がある。
   ⑪折返し地点【北緯35度24分07秒 東経136度46分22秒】。帰路は名鉄茶所から乗車→名
     鉄岐阜→JR岐阜→大垣→樽見鉄道十九条下車→徒歩→駐車地点

     参考資料:岐阜新聞社発行「中山道ウォークinぎふ」、今井金吾著「今昔中山道独案内

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