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     第12話 棒の手

   

 10月15日(日)、尾張旭市市民祭において、愛知県無形文化財「棒の手」が披露され、我が家の長男も参加しました。

 毎年本番に向けて9月中旬頃より練習が始まります。昔よりは子供自体の数がずいぶんと少なくなりましたが、今でも小学生男子のほとんどが棒の手に参加します。熱心な棒の手保存会のみなさんの勧誘もありますが、棒の手披露の時にもらえる花代(現金)の魅力も大きいと思います。練習では、普段あまり怒られない子供達がかなり厳しく教え込まれます。本番での棒の手披露と共に、子供達にとって貴重な体験です。

 祭礼当日のスケジュールは、午前7時各部落公会堂に集合、演技披露後出発→旭中学校→スカイワードあさひ→多度神社にて昼食後演技→各部落に戻り、役員宅・参加者宅で演技→午後5時公会堂にて解散、というように非常にハードなものです。しかし、年に一回の晴れ舞台。大人も子供もおお張りきりでした。

     

 <歴史>「棒の手」は、南北朝時代に起源を発し、当時は戦闘様式が強く、それが徐々に神事芸能様式に変化していったものと思われます。康安元年(1361年)新居村(現在の尾張旭市新居村)を開いた、水野又太郎良春は南朝の僧将として吉野山にて棒術の修験道儀礼を授けられ、新居村に持ち帰り、配下の農民に伝授し農兵団を組織したのが始まりとされる。しかし、刀狩り、兵農分離という武家政権の下、戦力となるものを持つことができず、農兵は姿を消すこととなり、戦術的な棒術は消滅したが、室町時代からつづいた山伏修験を中心とした呪術的な要素をもつ棒が台頭することになる。江戸時代になって、一般の人々の目を楽しませる「棒の手」へと変貌し、また“神に供える棒”として工夫され、神社に奉納される着飾った馬「おまんと」の警護隊として神社に奉納、演技が行われるようになって現代に引き継がれている。現在、愛知県の無形文化財に指定され、毎年10月に市民祭のひとつの行事として行われていますが、かっては稲作とも深く関わり、その年の稲の出来具合によって村の長老に伺いをたてて、豊作の際には棒の手奉納の許可がおり、凶作の際には中止になることが多々あり、何年も挙行されなかったこともあったといわれている。

 <現状>毎年、10月の第2日曜日に、城山公園を中心に市民祭が行われると同時に、棒の手も多度神社にて、また各地域も地元神社にて「棒の手奉納演技」が行われます。それに先立ち、各町内の演技者が旭中学校に一旦集合し、そこから多度神社まで、馬を先頭にして(馬を出すのは費用がかかるため各町内持ち回りです)、鉄砲隊そして棒の手演技者、総勢数百名が道を挟んで隊列を組んで行進する様子は壮観で一見の価値があります。 

 愛知県には多くの流派が伝承されています。尾張旭市には、新居地区の「無二流」、印場地区北部の「直心我流」と「東軍流」、稲葉地区の「検藤流」、印場地区南部の「直師無想東軍流」の五つの流派があります。いずれも修験者との繋がりが強く、「九字の大字(呪・印)」の護身法を含むものや、宮本武蔵の兵法35条の中の6か条を免許としている流派もあります。