風邪

7月竜

オアシス。
砂の海に浮かぶその場所を訪れた旅人はそう呼んだ。
細かく美しい砂地は天の恵みをその身に留めず、渡る風が岩山から新たな金砂のベールを砂地に与えていた。
その中で僅かに地下水が涌き出るオアシスだけが緑に被われていた。
岩山にはこの周辺で貴重な岩塩が取れた。その為岩塩採掘所まで敷かれた鉄道は、砂の海を渡らなければならず、鉄道で1日かかる砂漠の横断にただ一ヶ所、鉄道運転手の息抜きとしてオアシスに駅を設けた。
その駅にエルリック兄弟はいた。岩塩採掘所の不可思議な噂を確かめる為訪れた旅。直接採掘所に乗り込む事は国家錬金術師の肩書きを持ってしてもできず、オアシスを拠点として噂の真偽を確かめた。
その帰り。
オアシスの駅で街へ帰る列車を待つ。結果的につまらない事件だった為、エドは不満げに、アルは所在無さげに駅のベンチに二人並んで座っていると、やはり帰りなのだろう、鉄道整備工ふうの初老の男性がふと、二人の前で足を止めた。
「風邪をひいたのかね?」
一瞬二人は固まると、アルはサッとエドを振りかえった。
「兄さん!?」
「やっ、俺は風邪なんぞひいてないぞ。」
「ホントに?無理してない!?」
「してない、してない。」
首をブンブン振って否定するエドを見つめて、アルはやっと息をついた。
オアシスには医者はいない。その為砂漠を抜けた町まで、ヘタをするとその先の賑わう街まで行かなければしっかりとした医療施設が無いかもしれない。ここでは軽い病気でも医者に着くまでに悪化する可能性が高いのだ。
「あ、心配してもらったみたいで…でも風邪ひいてないみたいです。済みません」
アルが軽く頭を下げると男は笑って首を振った。
「違うよ。そっちのおちび」
「誰がウルトラハイパーチビじゃ〜っ」
飛び蹴り繰り出す直前、アルはなんとかエドを取り押さえた。その間に脱兎の如く男は逃げ去る。
エドは不思議そうにアルを見、口を開きかけて、また閉じた。
「音」
「え?ああ、ちょっとするね、何だろ」
自分の肘辺りを見て、アルも小首を傾げた。エドは地面を睨んで、急に我に帰った。
「離せ〜アル〜。重い〜」
タイムリーに入ってきた列車に、アルは唸るエドを抱えて乗り込んだ。

「兄さん…いい加減に機嫌を直したら?」
列車の座席に座った後、急に無口になったエドに、アルは困って話しかけた。
「それとも…ホントは調子、悪いんじゃないの?」
アルの言葉に、弾かれた様にエドは立ち上がった。
「兄さん?」
「それだ!アイツ何所行った?」
「ちょっ、兄さん?」
アルの制止より早く、エドは車内を駆け出した。

エドを追ってアルも車内を移動したが、岩塩掘りで疲れた人が車内の到るところで寝転んでいて、大きい鎧が動くのを迷惑そうに見やった。諦めてアルは座席に戻る。関節から聞こえる小さい不協和音を伴って。

兄弟が陣取った3号車は寝息に包まれていて、戻ったアルはひっそり笑った。
鎧のアルは風を感じる事はできないが、見る事はできた。窓を開けると空気が入れ替わり、窮屈な車内が少し息つき易くなったようだ。寝息が穏やかになる。
眠る事がなくなってから夜の静寂は孤独を宣告する使者のようで、アルは怖かった。エドはまだ意識を戻さず、鎧に慣れていないアルがエドの部屋に入るのをピナコはとめた。勿論、ピナコは入室を禁じたわけではないが、《今は、やめときな》というピナコの言葉を意味を、アルは汲み取る事ができた。
死と戦っている兄をただ見守るしかできないという事
思うように動かせない体
それらが打ちのめすのは他ならぬアルの精神だという事
自分を心配してくれるピナコの制止を、アルは振りほどく事ができなかった。
兄の部屋の前、時々聞こえてくる呻き声以外、自分を繋ぎとめるものの無い孤独。
見かねたデンに激しく吠え立てられ、誘われて出た満天の星の下。
虫の音、葉擦れの音、どこかで吠える犬、誰かを呼ぶような猫の声、それら全てがアルを包んで。
強くなる事を、強くある事をアルは胸の印に誓った。
それから
腕も、足も全て、鎧が自分になるまで繰り返し繰り返し動かした。
どんな”声”も聞き逃さないように、アルは耳を澄ませた。
そんなアルにピナコは苦笑してエドの面倒を看るように言った。
それからは、兄の寝息が、エドの生きている事をアルに告げる大事な言の葉。
エドが元気になった今でも、彼の寝息はアルを安心させる。
『兄さんに限らず、安らかな寝息は平和って言うか、なんか、なんかね。嬉しくなる』
時折鼾が聞こえてくるが、聞こえてくる寝息は心地よい音楽に変わり車窓を駆け抜ける砂の海をひき立てた。
そこへ
「アルっ」
人々を踏みつけてエドが戻ってくる。
「兄さん、静かに…」
「風邪だ!」
「えぇっ?やっぱり引いてたの?大丈夫?」
「違っ、俺じゃね…」
立ちあがりかけたアルを制止、エドは座ろうとして窓が開いている事に気付いた。
「やばっ、いつから開いてた?」
「あ、ごめん。さっき開けたんだけど」
ガシャンと勢い良く閉めると、エドは向かいにドカッと座った。
「いったい、どうしたの?兄さん」
「お前は動くな!砂漠を抜けたら、治すから」
「直す?」
「治す!だ。お前、風邪引いたんだよ」
「はあ?」
「いいから。ここじゃ治しても、また罹るから、今は大人しくしてろ。俺が看病してやっから。」
そういうとエドワードはアルの頭を撫でた。
感触なんて無いけど、冑を撫でるエドが優しそうに嬉しそうに笑うから、アルは黙ってそのままにしていた。
「鼾、うるせーな」
「そう?兄さんほどじゃないんじゃない!?」
「てめっ、俺は鼾なんかかかん!」
言い返してから、エドが僅かに心配そうな表情を浮かべたので、アルは笑った。
「うん、そうだね。兄さんの寝息は、すごく…落ち着く。」
柔らかい声が優しく告げたので、エドは僅かに頬を染めた。誤魔化すように鼻を擦る。
「だろ!?俺は寝相がイイ…」
「だって、寝息が聞こえている間は騒動起こさないもんね」
エドの言葉に被せてアルが揶揄うと、負けじとエドは立ちあがった。

駅まではもう僅かである。

看病には向かない代表格の7月竜です。した事はもとより、されるのだって付きっきりというのはなく…絵に描いたようなのを理想に掲げてましたが、玉砕しました(苦笑)。
実はこれ、リクで頂いた風邪で看病を書きたかったんですが、玉砕。とても差し上げられなかったので自分のトコに載せました。「風邪と看病」その3.差し上げたものも、似たり寄ったりなんですがね(涙)。ごめんなさい。m(_ _)m どうやら病気になりそうの無い方を選択するのが敗因のようです(笑)
 2004/01/17

おまけ

「うっせーぞ、チビ」
二人のやり取りに睡眠を邪魔された乗客=岩塩採掘人ががなる。
「だ〜れが、スペシャル合体マジンコ豆どちびか〜っ」
日々、意味不明になる決め台詞を叫んでエドが採掘人達に飛びかかる。
「兄さん、やめなよー………?」
立ちあがったアルフォンスは奇妙な音が自分の間接から発せられるのを聞いた。
『あれ?おかしいな。ちゃんとオイルで磨いてたのに…』
目の前ではエドが疲れている採掘人達に制裁を加えている。
『止めなきゃ』
踏み出した足から断末魔のような音が聞こえ、アルはその場に崩れ落ちた。
「アルッ」
悲鳴を上げてエドが駆け寄る。
「兄さん…、僕、動かないみたい」
「風邪だって言ったろ。ここの砂は細かすぎるんだ。表面は綺麗にできても、手の届かない場所にまで入りこむ。塩気も含んでるから…錆びやすい。」
なるべく機械的な言葉を避けて説明するエドに、アルフォンスは合点がいった。
『ああ、それで整備工の人が”僕”を風邪だと言ったのか』
エドはゆっくりとアルの身体を抱き上げようとして、重さではなく鎧の大きさにつんのめる。
「兄さん、無理しなくても…」
「無理なんかしてない。俺が看病するんだから。大丈夫。」
なんとかアルを座席に座らせると、エドは繰り返し繰り返し呟いた。大丈夫と。
そんな兄の方が痛ましくて、軋ませながら兄の手に自分の手を重ねた。
「うん。兄さんが看てくれるから、安心だね。」
無理した為、そのまま動かなくなったアルの手を、エドは駅に着くまで愛しそうに摩り続けた。