怖いもの

     7月竜


〔懲りないヤツだな また来たのか〕

暗闇の中に突然浮かび上がったその姿は、忘れたくても忘れられない
だけど、全ての真理を解き明かさない限り、見る事は出来ない もの

真理 宇宙であり神であり、そのいずれでもないもの。もう一人の自分 

〔今度は何を望む?〕

今度?それは何時の事だ?自分は何故ここにいる?
ここへ来る前は、何をしていたのだろう?
「………っ」
思い出せない

俺は恐怖を振り払うように首を振った。
「アル……」
傍らにある気配が〃ここ〃には無くて、俺は小さく身を震わせた。
それを見て、もう一人の存在から面白がる気配を感じたが、ソレは何も言わなかった。

何をしていたか覚えていない
だが、望む事なら唯一つ

「アルフォンスの体を取り戻したい!」

〔等価交換だ、錬金術師〕
「俺の体、命、全部!」

〔それでは等価にならないな〕
しばらくの沈黙の後、ソレは口を開いた。
「俺ではアルの価値は無いと!?…」
そうかもしれない。だが、諦めは出来ないんだ!
〔物質としての価値に違いは無い。軍の大総統もウロボロスの連中も物質としては同じだ。物質にはどちらが尊いなど存在しないのだ〕
「だったら!」
〔真理では等価だが、心理では違う、だろ!?〕
「なんだって…?」
何だ?何でこんなに不安なんだ?なんで…
汗を拭う俺に、ソレはニヤッと笑った。
〔お前にとってのアルフォンスと等しいもの、ことを差し出してもらおうか?〕

弟を失う事と 弟に嫌われる事 どちらがいい?どちらが恐い?

ドクン と心臓が鳴った

大事な弟。アルを元に戻す事が鋼である意味
だけど今、側に居ない事が、こんなにも心細い
生きていてくれれば   なんて
そんなのは言葉のうえだけだ!
愛しんでいるつもりで、こんなにも支えられて生きているんだ、俺は

〔人に戻すんじゃないのか?鋼の〕

俺はっ!

伸ばした手を確かな腕が、掴んだ


「大丈夫?兄さん…ずいぶん‥魘されてたけど」
「……、アル?」
まだぼんやりする頭で辺りに視線を流せば、ここは昨日立ち寄った宿屋。窓の外は未だ暗い。
自分がここに居る事を教えてくれる指標に視線を戻せば、アルは俺の左手を両手でそっと包んでそこに居た。ひっそりと。
左手を預けたまま上体を起こす。前屈みになる俺の背をアルは慌てて支えた。
背に触れる冷たい手。
左肩に当る鋼の胸。
「!…兄さん?」
布団に零れ落ちる雫に、アルは驚いたようだが、それ以上は言わず、俺の背をさする。
「ごめん、アル。ごめん……」

俺は初めて弟の前で、顔を覆って泣いた




ノアの箱舟で助けられるのはただ一人。でも、舟に乗せる為にはその人に他の全てを捨てさせなければならず、結果としてその人に嫌われるとしたら、自分の想いとその人の未来の為に嫌われる事を覚悟で舟に乗せますか?
それともその人を失っても愛されたまま別れる事を選びますか?突拍子のない質問で済みません。
気持ちと身体。想い出と現実。
恐いものは他にもいろいろあるけど、エドを絶望させる事が出来るのはアルだけという夢物語でした。ごめんなさい。