7月竜

「百物語、そろそろ完成したんですかい?せんせぇ」
通りすがり、腰の曲がった老人に問われ、百介ははっとした。
「長耳‥さん?」
「おっと。気を付けなせぇ、せんせぇ。うしろから婆ぁどもがつけてくらぁ。本当は声をかけちゃいけねぇんですがね。ちょいと心配だったんで。せんせぇ、足腰に自信、ありやすかい?」
潜めた声から一変、老人は百介の袖を引っ張った。
「そりゃ済まないねェ、お若いの。お言葉に甘えて峠の茶屋まで負んでって下され」
ひょういと背中に飛び乗られ、百介はよろけそうになったが、逃したらもう二度とこのような廻り合わせは無いかも知れず
「行きますよ。しっかり掴ってて下さ〜い。」
老人を負んだまま全速力で走り出した。
後ろでなにやら鴉が騒いでいたが、振り向かない。できるだけ速く。出来る限り速く。
気付けばいつのまにか背の重みは無く、百介は1本の高くそびえる杉の下にいた。杉の上、空は暗く重い。
今にも雨が降ってきそうで、百介は辺りを見まわした。知らない風景。長耳の老人どころか人ひとりいない。
「久しぶりでやすねぇ、せんせぇ。」
「ま、又市さん?」
姿の見えない相手に、百介は慌てまくる。
「婆さんどもには奴共から、きつ〜いお灸を据えておくんで、今後せんせぇの身辺を荒らしたりはしないでしょう。じゃ、奴はこれで。」
「待って下さい!又市さん。姿を見せて下さい!酷いじゃないですか、顔を見ずに御別れなんて。」
「せんせぇ、お忘れですかい?奴共はあちらの住人。せんせぇとは本来顔を合わせる生き物とは違いやす。こんな別れの方が、奴らしいでしょう!?」
「嫌です!どうしても、顔を見せずに行くというなら、わたしはこの場で首を切ります。」
百介は懐から珍しい舶来のペーパーナイフを取り出すと、首筋に当てた。
「せんせぇ‥それじゃ死ねやしませんぜ!?」
「一気には死ねないでしょう。でもそのうち出血多量で息絶えます。」
ぐっとナイフを首に押し付ける百介の真剣な様子に、深いため息が漏れる。子供のようなその仕草に、頭を描く気配がした。
「仕方ありやせんねぇ。でも、お銀は‥」
「お銀さんじゃなく、貴方の顔が見たいんです!」
ざざっと木の葉の擦れる音がした後、百介の後ろに又市はいた。
「奴の顔に、なんのご用で?」
「いえ、用ってわけじゃぁ‥でも、わたしには大事なんです。」
「言ってる意味がちんぷんかんぷんですねぇ。」
呆れたような又市の口調も、今の百介には懐かしかった。どうでもいい話題を、次から次へと繰り広げる。

「健気だねェ、あのせんせぇ。」
「ほんと、小股潜りのどこが良いやら。あたしのような美人がいるってのにさ。」
「喰えねぇところが良いんだろうよ。ま、お前さんもそうなんだがな。」
「必至に繋いでるけど、又市はとうの昔に知ってるよ。」
「せんせぇが、又の字に惚れてるって!?」
「知らぬは先生ばかりなり、さ。」

「分ってないようですねぇ、せんせぇ。せんせぇは陽の当る世界のお人だ。奴とは、係わり合いになっちゃいけねぇお人なんですよぉ。」
「わたしは!」
背を向けた又市の手を百介は取った。
自分の手を握る百介の手から、又市は視線で彼の顔まで追っていった。
【あいかわらず、素直なお人だ。けれどね、せんせぇ。真直ぐ見られても、どうしようもなりやしません】
自嘲すると又市は、自分の手を百介から取り返した。
「又市さん!」
風が百介を取り囲む。
「又市さん、わたしは!」
1本杉も又市も消え、あとには見慣れた街道が続くばかり。
「わたしは‥」
見上げた空はどこまでも青く
「わたしは貴方の事を‥」
百介の想いを吸込んで消していった。

又市さんの魅力にメロメロなのは7月竜です。が、山岡百助さんもそうだと思っております(笑)2004/0411
口調が可笑しいのはご勘弁の新参者です。お許し下さい。