堀川堀留跡の碑

堀川は、慶長15年(1610)城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として福島正則によって開削されたと伝えられている。当時は名古屋城近くのこの地で堀留になっていたが、天明4年(1784)に行われた大幸川の付け替え、明治10年(1877)の黒川治愿による黒川の開削、さらに昭和初期の改修を経て、現在の姿になった。
朝日橋は、天明5年(1785)に初めて架橋され、昭和初期まで橋の下には苔むした石積みの落差工があった。その水音から「ザーザー橋」と呼ばれたり、お堀の水の落口近くにあったことから「辰の口橋」、あるいは橋の上を歩いた時の音から「ドンドン橋」とも呼ばれ、人々に親しまれていた。
かつて巾下御門に通じるこの地には多くの船が行きかい、今の洲崎橋付近に至る渡船が始まる萬延元年(1860)頃には、名古屋の交通の中心でもあった。
また、満ちてくる潮にのって鰹や鰯がこの付近までさかのぼってきたとも伝えられている。

昭和59年9月   名古屋市

 注)洲崎橋は朝日橋から約2.4km下流にある。

 朝日橋東詰にある「堀川堀留跡の碑」より

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