百曲街道とは

百曲街道は中川区の日置橋西詰辺りから江川沿いに南に下り、熱田区古新町で緩い曲線を描きながら西に向きを変える。さらに中川運河の昭和橋辺りで国道1号線の南側に移り、国道にほぼ並行して中川区東起町の正徳橋に至る道筋をいう。古新町で南へ分岐した道は熱田・宮の宿にも通じた。
この街道は江戸時代初期の熱田新田開拓に伴い、その北側に既に干拓されていた中野外新田・中島新田の干拓堤防の上に出来た道筋で、多くの屈曲があったので百曲街道と呼ばれた。
江戸時代末期から明治の頃は、北の端を大須の南・橘町で本町通に、南の端を当時の東海道である明徳橋・日之出橋辺りにつないで、名古屋の城下町と西南部を結ぶ産業道路の役割を果たした。
その後の区画整理等で全ての道筋をたどることはできないが、所どころその面影が残っている。

注)愛知県図書館絵図検索サイトにおいて尾張国名古屋実測原図(明治18年作成)や国会図書館近代デジタルライブラリー(最新調査大日本郡部地図 愛知県之部 明治44年)などの中に「縣道百曲街道」という記述を見ることができる。

       熱田新田と番割観音

熱田新田は江戸時代の初期、尾張藩主・徳川義直の命により、熱田の堀川から庄内川に至る海岸線(約4km)を、南北は百曲街道(ほぼ現在の国道1号線)と東海通に挟まれた範囲(約1km)を干拓したもの。
正保4年(1647)に着工し、慶安4年(1651)に検地が行われ、3841石の石高があった。
新田開発のような大規模な土木事業は、多くの犠牲を伴うことがあるので、作業の無事を祈り当時盛んに信仰されていた西国三十三所観音にちなんで新田を33ヵ所に区割し、それを「番割」と呼び観音堂を祀った。中川、熱田、港区の一番町〜十一番町は現在もその名残として残っている。
この三十三の観音はその後災害等による消滅の危機を乗り越え複数を同じ観音堂に集めたりして現在も受け継がれている。

注)以上の説明はいずれも「百曲街道と番割観音巡り」のパンフレット」(はっけん・たんけん中川区まちの魅力発信隊<中川区役所まちづくり推進室>)より

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