稲生街道

稲生街道ができた時期ははっきりしないが、名古屋城築城以前から熱田神宮へ通じる通ができており、熱田街道とも呼ばれていた。名古屋城築城時に道を広くして直され、街道として形が整った。経路は、幅下から浄心寺を北に向かい,惣兵衛川に架けられた地蔵橋で一度右に曲がり,安性寺の西を通って矢田
川の堤防に出る。矢田川は歩いて渡り、庄内川は渡し舟で渡った。大野木に出た後は,上小田井を通って岩倉街道と合流し,丹羽郡の古知野に至っていた。現在の県道名古屋江南線がほぼこの道筋にあたる。庄内川の渡し舟は,稲生の渡しと呼ばれた。渇水期には,大野木村から仮橋が架けられたが,普段は渡し舟が活用されていた。近隣の村に6隻の渡し舟が用意され、一人2文の渡し賃を取って通行人を渡していた。しかし、この渡し舟も、増水時には出ないことが多く、旅人に不便を与えていたようである。渡し舟が6隻もあったことから、稲生街道を通る人馬の数も相当多かったと思われる。しかし、明治の中頃でも、稲生堤から名古屋城の辺りまで一望できたようで、枇杷島市場などで栄えた美濃路ほどのにぎわいはなかったようである。

【西区100年のあゆみ(名古屋市西区役所 西区制100周年記念行事実行委員会)より】

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