岩村町指定史跡 石室千体仏

石室千体仏は経塚で、寛永9年(1632)に岩村城主松平乗寿(大給松平本家)が岩村城の鎮護と領民の安泰繁栄を祈願して建立したものである。乗寿は菩提寺の龍巌寺に命じて浄土三部経一千部を石筐(石の箱)に蔵め地中に深く埋蔵し、その上に石室を設け一千体の阿弥陀像を安置した。
6年後に乗寿は国替えによって浜松へ移り、丹羽氏が岩村城主となって五代64年ほど在城したが、お家騒動が原因で領地半減となって越後高柳(新潟県新井市)へ移った。そのあとへ信州小諸(長野県小諸市)から、松平乗紀(のりただ)が転封してきたが、この松平家は乗寿の二男乗政が分家して創立した大給松平の一族であった。
石室千体仏は110年を経て荒廃してきたので、乗紀の後をうけて岩村城主となった乗賢(のりかた)は大給松平本家の下総国佐倉城主(千葉県佐倉市)松平乗邑(のりさと)と相談し、寛保元年(1741)に協力して修繕再営した。石室を改修するとともに仏像も新しく作り替え、前の古い仏像は供養して地中に埋蔵した。
仏像は一千一体ある。中尊一体はご身長一尺四寸(約42cm)座光共に三尺六寸(約109cm)で小仏千体は三寸(約9cm)で座光共に四寸(12cm)であるが、小仏千体のうち十体は百体ごとの首像(かしらのぞう)として四寸(約12cm)座光共に五寸五分(約17cm)と少し大きい。一千一体とも金彩(金箔)が施してある。
石室千体仏を再営した乗賢も乗邑も乗寿の曽孫であり二人とも老中の大役に任ぜられ、乗邑は将軍吉宗と組んで享保の改革を断行した。
千体仏は昭和5年1月紛失し、昭和11年に再入仏し現在に至っている。
ご開帳は建立当時から七年毎に行っており、陽春4月桜の候に近郷はもとより遠方からも多くの参詣者がある。
石室の正面から左回りに寛保元年再営記が刻み込まれており、石室千体仏の歴史を読み取ることができる。

平成5年12月   岩村町教育委員会

(境内の説明板より)


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