浄光寺と盛巌寺、巌邑神社

1.遍照山浄光寺
開祖は三河の人内田祐正上人で真宗大谷派即ち東本願寺派である。
慶長6年(1601)岩村城主松平家乗の時、熊洞に県立したが慶安2年(1649)相原の現在地へ移転した。
その後宝永2年(1705)と明和2年(1765)の2回火災に遭い(類焼)その度に再建した。現在の本堂は明和6年(1769)土蔵造りにて再建し文政4年(1821)に瓦葺とした建造物で日本に現存するものとしては極めて数少ない。
◎寺宝
 ・顕如上人より賜った阿弥陀如来御影画軸
 ・蓮如上人筆六字名号軸
 ・宗祖見真大師(親鸞上人)御影
 ・三朝高祖御影
 ・上宮太子御影
 ・宗祖見真大師御絵伝
 ・見真大師自作の木像
 ・徳川幕府十二代・十三代将軍の三ツ葉葵紋章入り位牌
 ・徳川幕府大奥の老女「桃光院殿仙誉寶池玉澗大法尼」の位牌
○別棟一切経経土蔵は安永8年(1779)の建立で寺の守護神が安置してある。
○境内には珍しい菩提樹がある。
○芭蕉の句碑がある。

(境内の説明板より)

2.久昌山盛巌寺
山門
宝永2年(1705)当時七世大雄祖淳和尚代に七堂伽藍の中の代表建築で二層よりなり、上層には釈迦牟尼仏十六羅漢その他の仏像を安置し信仰の道場として再建した。

本堂
元禄8年(1695)当時七世大雄祖淳和尚代に七堂伽藍の中心になる殿堂で正面中央に御本尊釈迦牟尼仏、文殊菩薩、普賢菩薩、如意輪観音を安置、両脇に脇仏壇を設け、聖観世音菩薩、地蔵菩薩を安置し信仰布教の大殿堂とした、天井棹縁の墨書に「元禄八年霜月廿六日作之大工権六郎六郎四郎」と記されている。

建物の特徴
山門には出組斗きょう(木ヘン+共)彫刻、本堂には円柱、斗きょう、虹梁、須弥壇脇仏壇、素朴な欄間など中世以来の寺院建築の面影をそのまま現存している貴重な建物である。

寺宝
釈迦牟尼仏像他21体
釈尊涅槃刺繍像
殿鐘 元禄10年極月15日作者水野庄左衛門正常
紙本 六字名号帳、以上町文化財指定

(境内の説明板より)

3.岩村(巌邑)神社・・・一条宰相中将信能終焉の地

承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵をあげたが、幕府によって鎮圧された事件を「承久の乱」という。承久の乱の頭目とみられたのが承久殉難五忠臣といわれる五人の公卿で、一条信能はその一人である。彼は官軍の一将として宇治川の芋洗で幕府軍と戦ったが敗れ捕らえられた。信能は幕府軍として出陣した岩村城主遠山景朝に伴われて鎌倉へ護送される途中、幕命により、同年8月14日、ここ遠山荘岩村の相原で処刑された。享年32歳であった。承久記では処刑を悼み、その模様を美文で綴っている。処刑の日を吾妻鏡では7月5日としているが、公卿補任では8月14日とされ、他の四忠臣との関連から後者の説が正しい。村人はこれを哀れみ、処刑地に小祠を建てて霊を弔い、若宮社と称してささやかな供養を続けてきた。
その後、六百数十年を経て明治の王政復古となり、明治13年(1880)6月、明治天皇が中山道御巡幸の折、承久の乱にあたって殉じた一条信能の英魂を御追認され、特旨をもって岩村へ勅使を派遣、祭粢料を賜った。
同14年3月に社号改称の沙汰があって岩村神社と称することになった。昭和3年(1928)11月、正三位贈位の恩命があった。
現在は岩村夏祭りとして毎年8月に全町をあげて祭礼を、行っている。
昭和32年12月19日岐阜県指定史跡となった。

(岩村神社境内の説明板より)

   トップへもどる