東海道亀山宿(三重県亀山市)
亀山宿は東海道46番目の宿場町。
JR関西線の亀山駅の改札を出ると、目の前の駅前広場に能褒野(のぼの)神社一の鳥居が目に飛び込んでくる。「なかなか面白そうな街だな」と、ワクワクしながら駅正面の観光地図と持参した地図を見比べたが、どのようなコースで歩いたらいいか考えがまとまらなかった。とりあえず、城跡だと思い歩き始めた。
多門櫓は工事中で、建物全体が網で覆われていた。石垣は小さ目の丸みをおびた石が、無造作と言ってもいいような方法で、組み上げられており、それがとても素朴で愛(いと)おしいほどに感じられた。
また、市中の宿場町の中心付近を歩いてみると、各戸ごとに文久3年(1863)宿内軒別書上帳に基づき、「屋号札」が取り付けられていた。本陣、脇本陣についても同様に札がアーケードの柱に取り付けられていたが、建物はまったく残っておらず残念だ。しかし、所々で江戸時代の匂いを感じられ、今後とも貴重な歴史的遺産を残すべく努力を重ねてほしいものである。
地図上の赤線は旧東海道、紫線はそれ以外に私が歩き回ったコースを示している。
なお、地図に示した@〜Kの番号は、歩いた順序とは関係なく、東の端から順次説明のために付したものである。
主要地点間の距離:和田道標(@の地点)→2.6km→江戸口門跡(Eの地点)→2.3km→野村
一里塚(Kの地点)
日付:平成24年6月7日(木)
天候:晴れ
@〜Kの地点間の所要時間:1時間10分(休憩時間を除く)
同歩行距離:4.9km(立ち寄り分を除いた赤線コース<旧東海道>のみ。)
コース地図を開く ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
(初期値は1/8000) 表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
場合はこちらの「8」参照
なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。
(移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
1.この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。
2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
い。
地図の呼び出し方について、詳しくはこちら
6.留意点
(1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
ある。
(2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
(3)高度表示については、約5m〜10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい
る)。
(4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。
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(各地点の説明)
@和田道標【北緯34度51分34秒 東経136度29分01秒】。元禄3年(1690)、東海道から神
戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた道標である。正面に「従是神戸白子若
松道」、左側面に「元禄三庚午年正月吉辰施主度会益保」と刻まれている。
A石上寺【北緯34度51分29秒 東経136度28分43秒】。延暦15年(796)、大和国布留郷(奈
良県天理市)の住人「紀真龍」により勧請された「新熊野三社」の神宮寺として開創された
という。
鎌倉時代には将軍家祈祷所となるほど手厚い保護を受け、広大な伽藍寺領を誇ったが、
織田信長の伊勢進攻による兵火で、伽藍等を失い衰微したと伝えられる。
B和田一里塚【北緯34度51分27秒 東経136度28分32秒】。慶長9年(1604)幕府の命によ
り亀山城主であった関一政が築造した。かつてはエノキが植えられており、昭和59年の道
路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に接する場所に消滅
した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。
C能褒野(のぼの)神社二の鳥居【北緯34度51分26秒 東経136度28分02秒】。神社はここか
ら北東へ直線距離で3.3km(亀山市田村町1409)。日本書紀や古事記によると日本武尊
は東征の帰路にこの地「能褒野」で亡くなり、墓が営まれたとされている。神社境内案内
図
D巡見道案内板【北緯34度51分23秒 東経136度27分50秒】。案内板が建っている場所は
「本町広場」で、四阿がある。
巡見道とは、江戸時代に巡見使が通った道をいう。巡見使が最初に派遣されたのは、三
代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、
民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。
巡見道はここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通
過し中山道とつながる。
また、このすぐ西側には「露心庵跡」がある。説明板の写真。
E江戸口門跡【北緯34度51分13秒 東経136度27分31秒】。延宝元年(1673)、亀山城主
板倉重常によって築かれた。詳細はこちら。
F福泉寺【北緯34度51分16秒 東経136度27分23秒】。福泉寺は、往古は天台宗であった
が、15世紀後半に真宗高田派に改宗した。この寺の門は正面軒唐破風付入母屋造、本
瓦葺、一間一戸の楼門で、棟札などから寛政7年(1795)の築造であることが明らかとな
っている。
G大手門跡【北緯34度51分19秒 東経136度27分15秒】。大手門は、東海道に直面する亀
山城の正門として位置づけられる門である。説明板の写真。
この説明板は交番の入口と道を挟んだ向側に立っている。交番の駐車場の隅には、大手
門跡の標柱がある。その横には亀山町道路元標がある。
H旧東海道町並み【北緯34度51分15秒 東経136度27分12秒】。道路の枡形といい、町並
みといい、亀山市内の東海道のなかではこの付近がもっとも街道筋の面影が残っている。
I道標【北緯34度51分14秒 東経136度26分55秒】。道路の南側の道標には「右
東海道
左 停車場」(大正3年)とある。
この道標の向側(北側)には、「右 郡役所 左 東海道」と刻んだ小さい道標がある。ここから
北を見るとクランク型道路の突き当たりに「青木門跡」の標柱が立っている(地図には表示
を省略したが)。
青木門は、亀山城の搦手門で、亀山城に泊まった徳川家康がこの門を通るときに、門一
帯にアオキが茂っていることを賞賛したことから青木門と呼ばれるようになったと伝えられ
ている。
さらに、この道標のすぐ西側に飯沼慾斎(1783〜1865)生家跡がある。彼は、江戸に
出て蘭学を修め、大垣で医者を開業した。50歳で引退後、『草木図説前篇』を著した。
J京口門跡【北緯34度51分20秒 東経136度26分46秒】。ここは亀山宿の西端である。
説明板の写真はこちら。
K野村一里塚【北緯34度51分26秒 東経136度26分14秒】。当時は街道をはさんで南北に
塚があったが、大正3年に南側のものは取り壊され、北側の塚のみとなってしまった。塚の
上には幹回り5m、高さ20mのムクノキがある。三重県には、もともと12箇所の一里塚が
あったが、残っているのはこの塚だけである。
【参考資料:亀山宿イラスト案内図(亀山市教育委員会)】
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