高僧 希菴禅師

希菴禅師は室町時代末、快川国師とともに臨済宗二大徳(二人の高僧)として名声を天下に馳せた高僧である。希菴は京都の人で建仁寺の月谷禅師に従って出家し、各地を巡って修行した。愚渓寺(可児郡御嵩町)の明叔禅師の高徳に心うたれて参禅し、ついにその法を嗣ぎ、明叔の命に従って京都妙心寺の塔頭大心院に入った。永禄3年(1560)勅を奉じて大本山妙心寺に入り管長職を5度もつとめ、名声は高まった。希菴は雪江の定めた一住三年の制を一住一年に改めて同門出世の道を開いた。希菴は大円寺(岩村町)禅昌寺(益田郡萩原町)恵林寺(山梨県塩山市)などの住職もつとめた。大円寺は永保寺(多治見市)愚渓寺とともに東濃三名刹とよばれ、美濃遠山氏一族の菩提寺である。
禅昌寺は天下の十刹古禅寺として知られている。恵林寺は武田信玄の菩提寺で、信玄は礼を尽くして希菴を迎え永保7年(1564)には、信玄の生母大井氏の十三回忌法要を営んだ。希菴は恵林寺から再び妙心寺に戻り、さらに大円寺へ再度迎えられた。信玄は希菴に対して恵林寺へ向かえようと何度も使者を送ったが、希菴は頑として拒絶したので、ついに怒った信玄は秋山伯耆守に命じて三人の刺客を送って殺害した。殺害のもう一つの理由は天下を狙う信玄はすでに肺を病んでおり、希菴はそれを知っていたことから口封じに抹殺したのである。
元亀3年(1573)11月26日、大円寺を脱出した希菴は飯羽間の橋上で、供の者とともに殺害されたが、享年七十歳前後であった。いまその橋を希菴橋という。里人がこの丘上に葬って塚とした。三人の刺客は、十五日を経ずして気が狂ったり、狂気した馬から落ちて死んだと甲陽軍鑑は伝えている。希菴には三法嗣があり、それぞれ発展したので希菴の法脈はいまも灯っている。

  (希菴塚の説明板より)

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