矢田川伏越


 「川が立体交差している」と聞くと、ほとんどの人はびっくりする。
道路の立体交差は、あちらこちらで見て知っているが、川のそれは見る機会が少ない。しかし、ずっと昔、名古屋では江戸時代初期から造られており、こちらのほうが本家本元だ。川が地下にもぐって立体交差するのを伏越(ふせこし)という。
 矢田川にかかる三階橋のすぐ上流にもある。庄内用水の「矢田川伏越」がそれだ。
ここにはじめて伏越が造られたのは、延宝四年(1676)。庄内川から取水した御用水を矢田川の下をくぐって名古屋城のお堀まで流すためである。
 御用水は寛文三年(1663)に開削され、最初は庄内川の水を矢田川に流し込み、対岸の山田村(東区)で、庄内川からの水と矢田川の水を合わせて取り入れていた。矢田川は上流に瀬戸の陶土地帯があるので流砂が多く、用水にも砂が流れ込み水路の浚渫も行ったが維持管理が難しい。このため、庄内川の水だけを流せるように御用水路を大幅に付け替えて、辻村(北区)で矢田川の川底をくぐりお堀まで流した。矢田川の下をくぐる伏越は、長さ97間(176.5m)幅9尺(2.7m)高さ3尺(0.9m)で、高さは低いが幅・延長とも大きなものであった。17年後の延宝8年(1680)には、さらに今の守山区側が延長されている。伏越は木製なので、その後も腐朽するごとになんども造り替えられた。

 この伏越が大きく姿を変えたのは、明治10年(1877)の黒川開削の時である。御用水や庄内用水などの水量を確保するとともに、犬山と名古屋を結ぶ航路を造るのを目的に黒川は開削された。それには矢田川伏越も舟が通れる構造にする必要がある。
 この時に造られた伏越の規模や構造の記録はないが、明治24年(1891)の濃尾地震による破損で改築したあとの記録が残っている。
 二本の伏越があり、上流側の東杁は江戸時代の御用水のものとほぼ同規模であるが、下流側の西杁は舟が通れるように幅が12尺6寸(3.8m)、高さ10尺3寸5分(3.1m)と非常に大きな断面になっている。黒川開削当時の伏越もこのようなものと思われる。壁には鎖がつけられていて、船頭さんはこれをたぐりながら伏越の中を進んでいった。矢田川の下は、水だけでなく舟も通っていたのである。
 明治44年(1911)には当時の新技術「人造石」で改築されている。
 「人造石」とは、日本の伝統的な「たたき」工法を、今の碧南市出身の服部長七が改良した技術で、石のように硬いことから「人造石」と名づけられた。まさ土と呼ぶ風化した花崗岩の細粒と石灰を混ぜ、水を加えて棒や板で叩き締めて固める。今のモルタルのように積み石の目地に入れたり、コンクリートのように人造石自体を固めて構造物を造ることもできた。矢田川伏越は人造石を固めて造られた。明治10年(1877)ころから普及し始めて全国各地で採用された。宇部港(山口県宇部市)や神野新田(愛知県豊橋市)の海岸堤防など大規模な土木構造物も造られたが、施工に手間がかかるので鉄筋コンクリートの普及とともにすたれていった。
 「人造石」の伏越は、矢田川の川底の低下により頂上部が1.4mも川の中に露出するようになったので、昭和30年(1955)に取り壊され鉄筋コンクリートで改築され、さらに昭和53年(1978)に三階橋ポンプ所を建設するにあたって改築され、今は舟が通れない構造になっている。

 伏越はなんども造り替えられた。木・人造石・鉄筋コンクリートというように、その時代の技術により、また舟運の有無などその時代背景により構造や姿は変わってきた。しかし、最初の伏越がここに造られた三百年以上昔と同じように、今日も庄内川からの水を流し続けている。さらに三百年後にはどんな姿でいるのだろうか。

「北区歴史と文化探索トリップ」(名古屋北ライオンズクラブ)より

                                      

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