19世紀後半において中国経済は西欧から広範に影響を受けるようになる。洋務派が軍需の必要から大小の兵器工場を設立したことで西欧の生産技術が工場生産に導入された。工場生産の技術は、その後軍需品の生産から民需品の生産へと広がっていった。
民間産業の発展は、日清戦争をへて70年代に展開された官督商弁企業の経営期を経て本格化するが、重要な官督商弁企業は運輸・通信業の経営から、その後の紡績業など軽工業の経営へと移行していった。実業活動を促した要因として政府の実業振興策、外国資本の撤退、民間資本の経営力向上などが重要視される。
産業経済の発展を実業家張謇の例でみよう。南通の地方建設に力を入れた張謇は、多くの企業を創設した。交通の便のために道路、港湾を建設し、陸運・航運業を経営した。開墾のために水利事業を起こし、土地を開墾した。金融のために銀行を創設した。また、出版、食品加工、水産、手芸などの発達のために関連事業も手がけた。張謇は地方自治を図る基礎として教育と企業経営を重視した。
張謇の経済的思考は彼の時代を代表する一典型と見ることができる。
洋務運動の次に変法運動が政治面で展開された。しかし経済的変化につながる根本的な施策は展開されるに至らなかった。清末に孫文ははやくも実業振興や民生経済に注目した。氏の三民主義は民族革命・民権革命・民生革命を掲げた。
孫文の三民主義は資本主義の色彩が濃厚である。しかし、中国の伝統思想である富の平準化の考え方を受け継いでいる。孫文は「平均地権」、「耕者有其田」という施策を主張した。
五・四運動は反帝国主義、反封建主義を掲げた大衆的民族運動とされているが、経済革命を直接目指す運動ではなかった。五・四運動後孫文は「連ソ・容共・扶助工農」政策に偏り、三民主義は大きく変質した。
毛沢東は中国的特色のある社会主義を主張した。中華人民共和国の建国後に採用された一連の経済政策は毛思想の具体化と考えられている。毛沢東は国有政策、大躍進、人民公社そして文化大革命のマスターマインドであった。