中国工業化のあゆみ
清末中国の工業化は、近代工場制工業の移植にはじまる。これは1860年代の洋務派による西欧文物の移植に由来する。洋務事業は、経済史的にみれば、軍事産業とそれにつづく近代産業の形成にその意義がある。軍需工場および民間産業のためにそれぞれの近代生産技術が導入された事実に注目したい。
民間産業の発展は、日清戦争後まで待たなければならなかった。その理由はいくつかあげられる。民間資本が徐々に蓄積されたこと。産業投資の道が開かれたこと。産業政策の変化をみたことなどは重要な理由といえよう。官督商弁企業の発展および第1次大戦ころの企業熱などの事例を考えるとよい。しかし、それにつづく内外の戦乱や社会不安などは、民間の企業経営に困難を加えた。官営事業を中心とする産業の発展はこのような背景を持つ。水利発電、電力、機械、化学、製鉄などは政府の経済建設事業として展開されたのである。
近代工業の発展過程は、おおよそ三段階に分けてみることができる。
(1)近代工業の形成期 洋務運動期に洋務事業として創設され、発展した。軍事工業が近代的工業生産の内実をとって経営されたのは、清朝の国内統治力の強化によるものであったが、生産設備および製品の捌きをある程度度外視することができた点は、無視できない。
(2)民間工業の発展期 やがて清朝政府は、経済力の不足と経済発展により、実業振興策をとるようになった。民間の資本は、近代産業への投資が奨励されるようになった。第1次大戦ころには、西欧資本が一時後退したこともあって民間企業の経営者は、いわゆる「黄金時代」を迎えることができた。
(3)近代工業の低迷期 戦乱や経済変動などの原因による産業経営の困難期を迎える。民間経営とくらべて政府経営事業が発展したことは、示唆的である。堅実な経営がきわめて困難な時代に多くの産業は、上海、天津、漢口など特定の地点に集中したが、零細企業はいうまでもなく、かなり規模をほこる企業は、外国資本の進出が積極化し、外国企業の競争に直面せざるをえなかったのである。