揣頭路(tshuē thâu-lōo)
探すことを揣(tshuē)という。就職のために奔走する若者は元気があってほほえましい。日本では特に中高年の職探しがクローズアップされているが、台湾の場合、平均失業率が3%以下を維持していることもあり、ややいい調子になっている。しかし、いつの時代でも快適な職場を見つけるのは容易ではないし、増してや自分の才能を発揮できて理想な待遇で処してくれる職場に恵まれる機会はそうそうあるものではない。この理由からでも職探しは多くの人にとって人生の重要な課題となっている。学卒者が職につくために奔走する。転職者がいい職を求めて走り回る。つまりツゥエ・タウローは日常行事として台湾人の生活に不可欠であり、生活現場の色々な場面においてよく使われる言葉である。
有本頂(ū pún-tíng)
職探しには能力の有無が問われることは言うまでもない。台湾人は教育熱心で通っている。何らかの理由で教育を受ける機会を失った親でも何とか子供にだけは教育を受けさせることに吝かではない。ウ・プゥンテエンまたはウ・ツアイティアウ(有才調)が仕事をする上で不可欠であることを経験によって心得ているからでもある。能無し、つまりブオ・プゥンテエンまたはブオ・ツアイティアウ・エ・ランが重要なポストを我が物顔で居座ることは軽蔑の対象にもなるのだ。
無路用(bô-lōo-iōng)
適材適所に才能を活かすことが望ましいが、現実では有能な人が例外なく適材適所において能力を発揮することが保証されるとは限らない。植民地時代および国民党政権時代の台湾では台湾は台湾人のものとは必ずしもいえなかったことで、台湾人の社会進出は抑圧されてきた。ブオ・ローヨンということばを聞く場合、このような背景を体験的に知っているものとそうでないものとではその意味するニュアンスが異なる。あきらめきった態度でブオ・ローヨンということばを口に出す時代は直接選挙による総統の登場で過去のものになるのであろうか。
就靠家己(tiō-khò ka-tī)
近代教育は科学技術と社会国家の理念や個人の崇高な理想を普及させてきた。しかし、自分自身の幸福の達成さえ制限されるような社会構造のもとではどんな夢でもいずれはじける時がくる。最近の民主化運動はその現れの一つとも考えられる。一生懸命勉強し、一生懸命働く、しかし、一生懸命努力しても一生うだつが上がらない。こんなはずではなかったと思うことさえ許されない。最初からそうであるからだ。「出頭天」と聞いたとき台湾人が思うことを世の人々がもっと理解してくれるようになれば、台湾人が自分しか頼れるものはない(tiō-khò ka-tī)という意味のことばを口癖のように言う気持がわかるであろう。
頭家兼新羅(thâu-ke kiam sin-lô)
自営業者の中では経営と管理の二役を同時に担う例がある。ボスでもあり、雑係でもあるような立場にあるものはこのことばがピッタリ当てあまる。私はこれを生計型の経営と呼ぶ。営利のために企業を経営することには変わりないが、そもそも自己雇用の目的もあって事業を経営する。零細経営にこのタイプの例が多い。しかし、私はタウケー・キャム・シンローとシニカルに言える人は偉いと考えている。自己雇用を創出し、自己責任で生計を立てる自信があってこそ自嘲もできるのである。
私の住む団地内にかなりの規模の雑貨屋があった。高齢となったオーナーが引退した直後に若い後継者が店をたたんで会社勤めに出た。この方が気楽で収入もそれほど違わないと計算したからだという。その先代の考え方を本人がこの世を去る前に確かめる機会を失った。さて、台湾では今日でも日々労苦をいとわない人による零細経営が盛んである。至る所でタウケー・キャム・シンローのケースに立ち会うことができるのだ。
有話無地講(ū-uē bô tè kóng)
言い分を聞いてもらえないことをこのように表現する。無地講は話を聞いてもらえる人または場所がないことだ。人生は時と場合に不平等や不条理な状況に直面させられることは避けられない。不当な扱いや身に覚えのない濡れ衣を着せられた場合、自分の潔白を主張するのは当然のことである。しかし、言い分を主張できない場合も少なくない、このときよく使われる言葉がウー・ウエー・ボゥオ・テエー・コンなのだ。
半籠師(puànn-lang sai)
未熟者のことをプゥア・ラン・スアイという。暮らしや仕事の上では経験がものを言うことが多い。これは情報時代でも例外ではない。いきなりベテランになることは現実の世界ではありえない。能力主義が重視されるといってもそれはブレイクスルーができるかどうかの話であり、同一領域における経験を全面的に否定するものではない。生半可な知識をもって分不相応に行動する人や実践的経験の欠如したものに対し、台湾人はこのような称号を与える。
心頭拿呼定(sim-thâu lia̍h ho tiānn)
落ち着いた心を保つことや決心するようになる状態を表す。ホ・ティヤーは動詞のリィヤ(撂)の後ろにつけて安定した状態を保つことを言う。チィア・ほ・バァー(たらふく食う)、チェン・ホ・シイョ(暖かく着込む)、リャ・ホ・テイッツ(真直ぐなるように持つ)などの例のようにある種の動詞が示す動作の効果や状態を表現する場合、ホが使用される。決心する結果は心をリャ・ティヤーしたことで、決心する状態になることは心をリャ・ホ・ホティヤーと言うのである。
代誌做呼好(tāi-tsì tsò hō hó)
仕事はキチンとやれと言う意味だ。タイチーは仕事や取り掛かっている用件を指し、ツゥオは実行することだ。行うという動詞の直後につけるホ・フゥオは適切な行動を表現し、取り掛かっている仕事をキチンと処理するようにとこのことばは表現する。動作が正しく行われるようにせよというときは、動詞+ホフゥオといえばよい。ホは調子がいい、状態が良好という意味だから、キィア(kiânn•歩く)・ホ・フォゥオは注意して歩きなさいであり、チエー(tsē・座る)・ホフゥオは間違いのないように腰掛けるよう注意を促すときにも使う。