平成2年ワ第1109号(原告 陳述書)


陳 述 書

      陳    述    書


         原 告 組 合 代 表 者 本 人                 冨  永  義  彦

一、  私は、昭和二年一一月から現住所に居住しておりますが、私の周辺は通称を「翠松園」と呼称されております。翠松園地内には町内会がありまして、その世帯数は平成二年四月現在で四一五世帯です。「翠松園」と呼ばれている地域は名古屋市守山区大字小幡字北山二七五八番及び同所二七七三番の、もと二筆の土地でありまして、その総面積は約一五万坪でありました。大正の末頃のことでありますが、この二筆の土地を共有しておりました訴外朝倉千代吉及び訴外谷口藤次郎の両名が、この土地を名古屋市の郊外住宅地として分譲する計画をたてまして、昭和元年一二月、この土地を数百筆に分割して分譲を始めたのであります。
二、  この数百筆に分割された「翠松園」分譲地は、いずれの土地も巾四メートルないし六メートル以上の立派な道路に面するように区画され、分割されておりました。そして、この「翠松園」土地分譲に際して発行された宣伝用のパンフレットにも、分譲地に面するこれらの道路はすべて「道路」と明瞭に表示されておりました。したがって、分譲土地の購入者は勿論、この道路敷地を道路としての用法に従い自由に通行その他の用に使用することができるものと信じて、分譲土地を購入したものに相違ありません。すなわち、「翠松園」の分譲土地には、その道路を自由に通行できる通行地役権が付設されていたのであります。そして、この翠松園の道路は、右分譲開始後現在まで、分譲当時の道路の状態をその儘存続し、何人も自由に通行できる公共用道路として、一般通行人は勿論自動車その他の諸車の通行等の用に供されて参ったものであります。
三、  ところで、この翠松園の道路は戦時中当時の守山町に寄附採納の申出がなされたこともありましたが、何故か町側の寄附採納手続がなされずに経過し、戦後の土地ブーム期に入るや、翠松園の道路敷地は、いつの間にか、被告らを含む数十名の者に、その所有権が移転していたのであります。
四、  その結果翠松園の道路敷地所有者と住民との間に紛争が発生しました。
そこで、翠松園の町内会では昭和三十五年に住民全員を組合員とする道路対策組合を作り道路問題の解決に当たって参りましたが、同年に発生した通行権確認反訴請求事件(昭和三六年(ワ) 第五三五号)をはじめ、その後の水道工事同意請求事件(昭和四四年(ワ) 第六八五号)など、いずれも住民側の全面勝訴に帰したのであります。私は昭和五五年以来同組合の理事長をしています。
最近では昭和六十三年の暮に、被告らを含む一部の道路敷所有者を除く、その余の大部分の道路敷所有者と翠松園の住民との間に和解が成立しました。(昭和六〇年(ワ) 第三六三号事件)その結果、現在では翠松園内道路の大部分が名古屋市に寄附採納されまして、上、下水道工事等が着々と施工されている次第であります。
五、  ところが、被告を含む一部の道路所有者と住民との間には、未だ和解が成立しないため、名古屋市の施工する上、下水道工事に支障を生じており、住民は勿論一般公共に対し、大きな迷惑を生じている有様です。
    平成二年九月一七日
冨 永 義 彦 



Back to :

経緯概要 判決一覧 資 料 集 公判記録
Home Page