更新 06-7-17猪峠
瀬戸は1000年以上も昔より瀬戸物の産地として栄えてきた。そのため人と物の流れが多く、道の発達を促してきた。近年の車と道路の発達によりそんな古い峠道がだんだん忘れられようとしている。
1.宮刈峠
2.二本松峠、新二本松峠
3.雨沢峠、見晴峠、三国峠
5.白岩峠 未完成
6.北戸越峠 未完成
7.「南戸越峠」
8.三条峠、山上峠
9.猪峠 未完成
1.宮刈峠 05-4-23、06-1-29調査
余床町と定光寺町を結ぶ。標高279m
余床町より北への小道を入る。八剣神社、ため池2つを右に見て、山道を登る。
15年ほど前よりよく来ているが、以前と変わらず雰囲気のある峠道だ。
峠には、新しく自然歩道の看板ができている。瀬戸では唯一案内板のある峠だ。
定光寺側は車道となっているが、途中のカーブ道より小道が出ている。これが旧道のようだ
と長らく思っていたが、古くは峠部がちがうようだ。旧沓掛村の古老から聞いた言葉が気になった。
「峠は、池の右側を通ってよく上半田川へ行ったものだよ」
昭和11年の地図をよく見ると、宮刈池の南を通って峠に達しているようだ。
峠の南西250mに旧峠道が残っている。が余床側は途切れて藪になっている。
手持ちのオリエンテーリング地図(95年定光寺)には、この峠道は途切れてはいるが今よりもう少し長く
伸びているので、ここ10数年で消えてしまう運命にあるようだ。
峠名の出処;東海自然歩道の案内書、現地の看板。宮苅峠ともあらわす。地名の宮ヶ杁からきたようだ
国土地理院50000分の1「瀬戸」昭和11年を使用
国土地理院25000分の1「高蔵寺」平成8年版を使用
余床町の馬頭観音 余床側の峠道
宮刈峠 車道が通っている 定光寺町の神明神社の参道、昔はこの道が峠道
上の参道に続く旧沓掛村の道 旧峠の余床側200m
2.二本松峠、新二本松峠 05-4-23、 05-5-4 調査
上半田川と笠原町梅平を結ぶ、標高360m
現2.5万分の1地図にのっている新峠より尾根沿いにかすかなふみ跡を進む
にせ峠がいくつかあって、紛らわしい。旧峠に着いても目立った道があるわけでもなく
少し瀬戸側へ下っていくと道が見えてくる。
道幅3mはあろうか、江戸時代のままならこの広さはないだろう
古老の話によれば、昔(昭和の初め頃か)陸軍の砲兵隊が峠を越えて笠原へ向かっていったそうだ
そのころに拡張がされたと思われる。
笠原側では峠部分はまったく道跡が見当たらず、平坦部は地図のように確認できた。
峠名の出処;瀬戸市史民族調査報告書、には二本松の峠と著されている。地元の古老からは峠名を聞きだせなかった。
国土地理院50000分の1「瀬戸」昭和11年を使用 国土地理院25000分の1「多治見」平成13年版を使用
新峠の笠原側500mに馬頭観音 旧峠の瀬戸側に3m幅の道跡
3.雨沢峠、三国峠、(見晴峠) 調査日02、03、04、05年冬
白岩町と土岐市西町を結ぶ。標高500m
現在の国道363号の県境を三国峠と呼ぶようだが、地形上の峠は柿野側へ500mほど行った所だから、ややこしい。古くは三国山を越える道を呼んだようだ、が現在その道はないようだ。
参考書によれば、江戸時代の中馬街道と呼ばれたこの道は現在のものと違って、片草の北側の尾根筋を通ったという。白岩の入り口付近は坂瀬(三ヶ瀬)と呼ばれ、02年ごろまで同名のバス停があった。
馬子唄に歌われた坂瀬の坂は入り口が判りづらいが、写真の長江家の玄関をかすめるように山道を登ると、すぐにつづら折になっておりこれが坂瀬の坂と思われる。現状は笹に覆われているが道幅2.5mほどあり馬、および馬車の類も通っていたのだろう。
山道を登ると道はなだらかになり、だんだんあいまいになる。自然歩道の手前200mは道跡もなく藪こぎになる。
自然歩道から上部は地図に示した尾根筋を行く。途中廃田があったりで、あいまいだ。上部は平坦で道幅もあり戦後の開拓時期に手入れされたのかも知れない。江戸時代はこのあたりはほとんど禿山だったとすれば、見晴峠はこの辺りを呼んだ名前にふさわしいと思う。
地形上の峠(鞍部ではなく、ピーク点)を過ぎると、県境すなわち現三国峠に出る。
土岐市側の資料に寄れば、瀬戸へ中馬街道は雨沢をすぎて507点の南を回り、下っていくことになっている。
この下りが坂瀬の坂と呼んでいる。これなら507点の南が旧峠となる。この道は地図に示したようにいくらか下って消えている。
峠名の出処;瀬戸市史民族調査報告書、には上半田川より山道をつめると、雨沢峠に至る、とあるが三国峠のことだろうか。
三国峠はウェブ上の美濃の峠にくわしいが、瀬戸側の峠道についてはまったくふれていない。
見晴峠は美濃の峠にも出てくる。現三国峠の瀬戸側200m付近を呼ぶようで朽ちた看板があるが、柿野温泉の宣伝があるからうさんくさい命名だと思っていた。昔はともかく今は見晴らしが好いわけでもない、上に書いた旧道がそう呼ばれるに値すると思う。
国土地理院50000分の1「瀬戸」昭和11年を使用
国土地理院25000分の1「多治見」平成13年版を使用
坂瀬の上り口 坂瀬のつづら折
峠近く
峠近く
現三国峠、旧峠への入り口
5.白岩峠
6.北戸越峠
7.南戸越峠 05-4-30調査
白坂町と藤岡町北一色を結ぶ。標高460m
現戸越峠の南1kmにある
現2.5万地図の峠道を探しているときに、路傍の石に書いてあった落書き「藤岡へ、江戸時代の道」をみつけた。疑いを持ちながら古い地図を調べてみると、確かに古い峠道が、あったようだ。
東大演習林宿舎の近くより林道を上る。この道は砂防ダムを作るためにできたようだ。昭和40年代の大きなダムが4,5個続く。その最後のほうの砂で埋まったダムを渡る。藪の中に小道がみえる、すぐに峠になる。峠より南に尾根筋をたどれば、猿投山に通じている。どうも猿投山への最短路として1部に知られているようだ。藤岡方面へは、谷筋に沿ってはっきりしないが、踏み跡はある。
古い地図を見れば藤岡側の峠道は少し下ってから等高線に沿っていたようだ。現在、峠からすぐに等高線に沿う荒れたふみ跡があるが、崩落のため通行不可能。
峠名の出処;仮称。現在の戸越峠は江戸時代には南戸越峠と呼ばれていた。
国土地理院25000分の1「猿投山」平成13年版を使用
国土地理院50000分の1「瀬戸」昭和11年を使用
峠の瀬戸側
峠の道案内、右 猿投山 左 藤岡
峠の藤岡側
8.三条峠、山上峠 05-4-10
東山路町と豊田市猿投温泉を結ぶ、標高370m
昔の地名では赤津村と加納村。
東山路町の林道から山道に入るがすぐに道が不明瞭になる。ほとんど岩の谷川を登るようになる。近年の台風とモトクロッサに酷く崩壊したままになっている。猿投山のバリルートとして1部につかわれているようでハイカーと、まれに会う。峠は切り通し状でよく使われた様子がわかる。
豊田側は現地図と違って少し巻いている、で現地図のようにまっすぐに下るような古い道でもあるかと探してみるが、見つからない。旧地図でも少し巻いてるように見える。ダム湖のほとりをたどると、猿投温泉に着く。ここに猿投山あたりの歴史が書いた看板がある。3年ほど前は三条峠の説明看板があったのだが今はない。
国土地理院50000分の1「瀬戸」昭和11年を使用
国土地理院25000分の1「猿投山」平成13年版を使用
三条峠 豊田側
瀬戸側 峠道の入り口
9.猪峠 06−5−9 調査
岩屋堂の案内看板に載っていた地名、雲興寺ちかくにあるはず、だが看板の地図がデフォルメされすぎてとても特定できない。観光協会らしき人もわからないと。
看板によれば峠近くに石仏とある。峠に石仏とあれば何とか探し出したい。
古い地図を見ると、赤津町から白岩峠へ向かう山道が越えていく鞍部を、猪峠と呼ばれている可能性が高い。
ここの道は昭和30年ごろの砂防ダム工事のために作られたものだろう。この峠部はよく歩いているが、その西に向かう道は未知だ。
○ ○キャンプ場の奥より旧道のある尾根を探す、地図に示した青線部は踏み跡もない。赤線部は旧峠道と思われるもので、ふみ跡がある。これに沿う黒破線路はほとんどない。峠付近には石仏は見当たらない。
この南100mほどに鞍部があり、旧峠の可能性を調査した。この峠部の両側に道が明瞭に残っているが、道があまりにも平坦すぎる。また30mほどで忽然と消えている、なのにこの道と平行にはまた道が存在する。つまり段々畑のように見える。どうも終戦後の開拓の跡のようだ。瀬戸の山では三国山周辺で大規模に開拓が行われたようだ。
国土地理院50000分の1「瀬戸」昭和11年を使用
国土地理院25000分の1「猿投山」平成13年版を使用
赤線道は現存する、
岩屋堂の案内看板
猪峠か
にせ猪峠か
メールは gyudon@gctv.ne.jp
まで
参考文献
書名 |
著者 |
発行所 |
発行年 |
備考 |
寸進丈退 5年のあゆみ |
瀬戸尾張旭郷土史研究同好会 |
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1998 |
瀬戸市図書館 |
寸進丈退 10年のあゆみ |
瀬戸尾張旭郷土史研究同好会 |
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2003 |
瀬戸市図書館 |
瀬戸市史民族調査報告書4 品野地区 |
瀬戸市史編纂委員会 |
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2004 |
瀬戸市図書館 |
瀬戸市史民族調査報告書3 赤津瀬戸地区 |
瀬戸市史編纂委員会 |
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2003 |
瀬戸市図書館 |
やまなみ遥か祈りの道 ほか |
土岐市教育委員会 |
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土岐市図書館 |
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更新記録
05-12-30
三国峠
06-3-5 南戸越峠
06-4-8 三条峠