飯田街道(伊奈街道)その6<治部坂峠〜念仏平>


このコースでは、特に有名な見所はなく、しいてあげれば、波合関所跡とゴールの念仏平だろうか。基本的は、ただただ山間の旧道を楽しむだけである。まさに、旧道らしい旧道が続くのでスキップしたくなるほどだ。

コース:中馬街道標識(@の地点)→1.9km→波合関所跡(Aの地点)→1.8km→波合神社
     (Bの地点)→3.4km→寒原峠(Cの地点)→8.1km(皇大神社立ち寄り)→松本平
     (Dの地点)→1.2km→念仏平(Eの地点)

     
日付:平成25年8月4日(日)ほか
天候:いずれも晴れ
所要時間:4時間40分(見学、休息時間を除く)
歩行距離:16.4km(寄り道した分の距離を含む)

    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
  い。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
   点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
 (3)高度表示については、約5m〜10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい る)。
 (4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

   @中馬街道標識【北緯35度21分39秒 東経137度40分13秒】。153号線からこの旧道への分
     岐点には表示がなくわかりにくい。
      国道を挟んで反対側には、つる草に覆われた古いコンクリートの小橋が樹木の間に見るこ
      とができるが、かつての中馬街道の名残であろう。
   A波合関所跡【北緯35度22分22秒 東経137度40分50秒】。スタート地点から1.3kmほど進ん
     だ地点に「関所跡まで400m」の案内碑が立っているので、それに従い進むとすぐ、危なっ
     かしい古ぼけたつり橋を渡る。さらに山道を進むと、関所の門が現れる。
     天文23年(1554)伊奈郡を手中にした武田信玄は、弘治年間(1555〜1557)南信濃
     の諸将の動向を監視するため関所を各所に配置した。波合関所は、最初は滝の沢(現平
     谷村)に設けられ、その後、波合宿町頭(現上町文の木付近)に移転、さらに享保7年
     (1722)現在にの深沢地籍に移った。関所はこの地へ移ってから148年存続した。復
     元は平成4年12月である。
   B波合神社【北緯35度22分42秒 東経137度41分30秒】。長い杉の参道がみごとである。
     境内の南の方に、「鎖鎌術発祥之地」の碑が建っている。たまたま本殿の前では、鎖鎌
     術の奉納実技が行われていたので、しばし見入ってしまった。
     また、本殿に至る手前の左側の石段を登ると、尹良(ゆきよし)親王墓がある。
   C寒原(さむはら)峠【北緯35度23分56秒 東経137度41分17秒 標高1073m】。明治13年
     に、後醍醐天皇の孫「尹良親王」の調査に訪れた、津和野町出身の歌壇の巨匠「加部厳
     夫」の歌碑が建っている。
     尹良親王は南朝の再興のためこの地を通過中、北朝方に襲われ、1424年浪合で戦死
     されたと伝えられている。この悲劇の宮を卯の花に心境を託し、
      卯の花も まことの雪の 心地して
      あらし身にしむ寒原のやま
     と詠み、「卯の花の歌碑」として建っている。
   D松本平【北緯35度26分24秒 東経137度42分44秒】。街道の繁栄に従って、村内の人々が
     この地に移住して鍛冶屋、桶屋、屋根板屋、茶屋、飲食店が軒を連ねて賑った。明治6年
     には三野小学校ができた。しかし、明治22年9月未曾有の大水害に見舞われ、8戸の民
     家と4つの橋が流され、多くの耕地が失われた。その後、対岸に県道が開かれて馬車輸
     送が始まると人馬の通行も減った。
   E念仏平【北緯35度26分44秒 東経137度43分18秒】。100mほど手前の水場で喉を潤し、
     この峠の涼しさにほっとした。ところが、すぐ近くの高速道路を走る車の騒音ですっかり興
     ざめというより、何か腹立たしかった。ここに並ぶ石仏達を冒涜すようにさえ感じたからだ。
     その名の通り、ここには何体もの馬頭観音、庚申碑、墓石などが立ち並んでいた。
     中でも、「奉納大乗妙典六十六部」と刻まれた、善光寺詣の途中で亡くなった「童女ふじ」
     の供養塔が哀れである。願主は作州津山とあるので、岡山県からの旅人だろうか。

    【参考資料:Web site「ちまき亭」さんの名古屋近郊の旧街道のルート】

    
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