美濃路<清洲公園〜起宿>(清須市〜一宮市)

美濃路(美濃街道)は東海道宮宿から中山道垂井宿までの途中に7宿を結ぶ脇街道で、全長はほぼ58kmである。東海道の海 路・七里の渡しを迂回する安全な陸路として多くの旅人に利用された。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、御吉例(おきちれい)街道ともいわれた。
清洲公園から濃尾大橋までを2回に分けて歩いた移動軌跡を、1つの地図にまとめて表示した。
今まで歩いてきた名古屋寄りの美濃路と同様に、このコースの道路は狭いものの(ほぼ5間幅)、西へ進むにつれて家並みが途絶えた部分では道路も拡幅されている。
街道沿いでは、古い街並みや先人から引き継いだ歴史を守っていこうとする努力がよく伝わってくる。特に稲葉宿では風格ある民家や建物がいくつもあり、とても興味深かった。
萩原宿でも、歴史を感じさせる味わい深い格子戸の家を何軒も見た。
起宿では民族資料館と脇本陣へ立ち寄った。特に脇本陣の建物の落ち着いた風情に魅せられ、座敷に座り込み、時の経つのも忘れ江戸の香りを満喫した。
                                                  (このコースについては「美濃路の旅」のサイトを参考にさせていただきました。)


コース:駐車場→24分→@の地点(総見院)→14分→Aの地点(清洲代官所跡)→3分→
     Bの地点(長光寺)→4分→Cの地点→37分→Dの地点(長束正家邸跡)→20分→
     Eの地点(国府宮神社一鳥居)→8分→Fの地点(国府宮神社二鳥居)→6分→Gの
     地点(国府宮神社)→11分→Eの地点(国府宮神社一鳥居)→21分→Hの地点(稲
     葉宿本陣跡)→17分→Iの地点(はえの橋)→45分→Jの地点(高木の一里塚)→
     Kの地点→10分→Lの地点→28分→Mの地点→20分→Nの地点(歴史民族資料
     館)→2分→Oの地点(起宿本陣)→3分→Pの地点(船橋跡)→3分→Qの地点→8
     分→Rの地点(起渡船場跡)→32分→Sの地点(正木運動場)

日付:平成19年1月30日(火)、2月6日(火)
天候:晴れ
所要時間:5時16分(休憩を含まない。)
歩行距離:22.9km

    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.、この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
  い。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
   点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
 (3)高度表示については、約5m〜10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい る)。
 (4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

    P 清洲古城址公園駐車場【北緯35度13分05秒 東経136度50分31秒】。駐車場は広い。利
     用時間は17時まで。
   @総見院【北緯35度13分42秒 東経136度50分11秒】。信長、信雄、義直の位牌や、信長、
     義直の墓碑が祀られている。
     織田信雄が本能寺の変直後に、焼け跡から探し出したと言われる信長の焼けた兜が保管
     されている。
     当初、この場所に建てられた総見寺は、清洲越しの際に名古屋の大須に移った(大須三丁
     目23-38)。
     その後、この旧地に総見院として建立された(1644)。
     大須の総見寺には信長公画像はじめ9点の県指定文化財などが保存されている。
   A清洲代官所跡【北緯35度14分00秒 東経136度50分00秒】。美濃路から北東へ細い道を少
     し進むと、すぐに小さなコンクリートの役所橋がある。その先の左側の畑の脇には説明板
     が立っているが、建物らしきものはなにもない。
     説明板によると、この建物の一部がこれより300m東の願乗寺付近に移築されていて、現在
     個人の手によって管理・保存されている。
   B長光寺【北緯35度14分00秒 東経136度49分55秒】。寺の門前には、鉄枠で補修された道
     標(1819年)がある。四ツ家追分(長光寺の北300mの岐阜街道との分岐点)にあったが、交
     通事故で折れてしまったため、ここへ移転したもの。
     境内には、六角の地蔵堂があり、鉄仏の地蔵菩薩立像が安置されている。寺の奥には「臥
     松水」という信長お気に入りだったといわれる井戸がある。
     六角堂の南の民家前には、秀吉の正室ねねの義父である「浅野長勝屋敷跡」の碑があ
     る。
   Cの地点【北緯35度14分08秒 東経136度49分50秒】。尾張藩の儒学者、能書家である丹羽
     盤桓子(にわばんかんし)出生地の碑。彼の墓は長光寺にある。
     この地点から40m西側が四ッ家追分で、そこから北方へ名古屋と岐阜城と結ぶ岐阜街道
     分岐している。
   D長束(なづか)正家邸跡【北緯35度14分26秒 東経136度48分41秒】。豊臣秀吉5奉行の一
     人として財政を担当した人物。
   Eの地点【北緯35度14分53秒 東経136度48分19秒】。国府宮神社一鳥居。
   Fの地点【北緯35度15分09秒 東経136度48分19秒】。国府宮神社二鳥居。
   G国府宮神社【北緯35度15分20秒 東経136度48分20秒】
   H稲葉宿本陣跡【北緯35度15分12秒 東経136度47分38秒】。現在は農林水産省の建物が
     ある。問屋場(宿場を通行する大名や役人に人足や馬の提供、荷物の積替えの引継ぎな
     どの宿場事務を行う所)は小沢、東町、西町にそれぞれ置かれ、馬45頭、人足45人がい
     た。
     この付近から西へ古い家並みが続く。中電旧稲沢営業所の建物もかなり古く、外壁や窓枠
     は名古屋市役所(昭和8年建設)の造りと似ている。
   Iはえの橋【北緯35度15分18秒 東経136度47分02秒】。
   J高木の一里塚【北緯35度16分22秒 東経136度45分58秒】。萩原駅方面へ向かって左側の
     道路沿の広報板の上部に小さい表示があるのみで、後は畑で他にはそれを忍ばせるもの
     はなにもない。石碑もあると聞いたが見落としたようだ。
   Kの地点【北緯35度16分45秒 東経136度45分21秒】。この付近から西は萩原商店街になっ
     ており、通りには宿場らしい古い民家を何軒も見かけた。
   Lの地点【北緯35度16分57秒 東経136度45分10秒】。萩原商店街はこの付近まで。
     この地点と、名神高速道路との中間に孝子「佐吾平」の碑がある。
     佐吾平は萩原宿問屋の馬子で、盲目の母を養い孝子の評判が高かった。ある日、彼の馬
     が暴走して明石候の行列を乱したため無礼打になった。村人が彼の死を悼んで小祠を建
     てた。
   Mの地点【北緯35度17分41秒 東経136度44分34秒】。ここからの紫線は暗渠になった用水
     の上の道路を示している。往復するなら帰りはここを歩いてみるとよい。遊歩道ではない
     が、車は少なく歩きやすい。
     この地点150m北には富田一里塚がある。東塚、西塚とも原型を保っていて榎も残ってい
     る。昭和初期までこの付近には松並木が続いていた。
   N歴史民族資料館【北緯35度18分21秒 東経136度44分12秒】。隣接する脇本陣林家の建
     物は明治24年の濃尾地震で倒壊したが、後に江戸時代の伝統的な町家建築の様式を残
     して再建された。特に庭がきれいで、心字を中心とした廻遊式庭園。
     資料館には駐車場も完備。
   Oの地点【北緯35度18分23秒 東経136度44分13秒】。起宿本陣と問屋場跡。1602年に開
     設され、諸大名の旅宿や人馬継建立等往還の公務に当たった。陣屋職11世加藤右衛門
     七(号は磯足)本居宣長の高弟で優れた文人であり、木曽川堤自普請を行うなどこの地方
     の発展に寄与した。
   P船橋跡【北緯35度18分29秒 東経136度44分11秒】。将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝、
     八代将軍吉宗の生母などの通行に際して舟を270艘以上用いて架設した日本最大級
     (855m)の船橋であった。朝鮮通信使の通行の際は、架設から撤去まで作業期間は4ヶ
     月半もかかったとの記録が残っている。
     1607年〜1764年までの間に18回架設が行われた。その資材を保管する蔵がこの場所
     に3棟あった。
   Qの地点【北緯35度18分34秒 東経136度44分14秒】。宮河戸跡の碑。碑に隣接する大明
     神社には樹齢数百年の天然記念物「起の大いちょう」がある。
     宮河戸は、起の商家が商う物資を運ぶ船が発着する湊であった。
     東に700mの起宿披本陣跡は今回は訪問しておらず、未確認。
   R起渡船場跡の碑【北緯35度18分44秒 東経136度44分22秒】。碑は金刀比羅神社境内
     の南西角にある。
     起湊には上の定渡船場、中の宮河戸、下の船橋河戸の3つの渡船場があった。定渡船場
     には昭和30年頃までポンポン船が運航されていた。
     また、境内には地震などのためにたびたび改修された10m近い大きな常夜灯がある。
   Sの地点【北緯35度19分06秒 東経136度43分56秒】。正木運動場の駐車場。日没には
     入口が閉鎖される。
  

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