佐屋街道(名古屋市〜桑名市)


佐屋街道は、七里の渡しの脇街道として、海が荒れた時や船酔いする人たちのために尾張藩主徳川義直が幕府に上申し寛永2年(1625)に開いた街道である。同11年に将軍家光が上洛の時に、この街道は整備が進みとみに発達した。
熱田から佐屋まで陸路6里、佐屋から桑名まで海上3里の道のりで、途中岩塚・万場、神守、佐屋に宿場が置かれた。
佐屋街道の一里塚は五女子、岩塚、大治三本木、神守、津島追分けの南にあったが、今では神守一里塚しか残っていない。

以前、美濃路を歩いた時のことを思い出しながら、熱田神宮を出発した。尾頭橋から西に向かい長良橋へ。同じ市内の歴史街道でも美濃路が走っている西区の押切付近とはだいぶ雰囲気が違う。佐屋街道の尾頭橋から八幡本通にかけて、八百屋、肉屋、荒物屋などの生活に密着した小さな商店が並んでおり、道幅も広いこともあってとても活気がある。古い商店街はシャッター通になったと言われるが、ここは少し事情が違っていた。その分、古い歴史遺産の保存に重点を置けなかったのも仕方がなかったかもしれない。
万場大橋を渡ると、がらりと雰囲気が変わり、時間がゆっくり流れる感じ。しかし、大治西条付近は道が狭く、交通が錯綜し、気が抜けない。やがて神守宿に入ると、古風な造りの民家がわずかに残っていた。
どす黒く汚れた日光川を渡り、埋田の追分けで小休止。津島神社や天王川公園に立ち寄りたかったが、すっとばして南下。
佐屋の町中もかつて宿場だった、との思いで眺めればそんな雰囲気がないではないが、さや舟場道標や代官所址を除いては、あまり往時を偲ばせるものは見当たらない。
さて、かつては佐屋から桑名まで舟に乗った訳だから、陸路の場合はどこを歩いても問題はなかろうと考えながら、地図に示したように歩いき、尾張大橋へ向かった。金魚が展示されている弥富資料館に立ち寄り、三重県へ。長島町地内は海面より低い感じがして心許ない。
長良川は、河口堰橋を歩いて越した。
六華苑の庭を楽しみ、味わい、遂に七里の渡しにたどりついた。

注)縮尺によっては地図と表示データと若干ずれることがあるが、1/8000(スケールは500mと表示される)を基本としてデータをプロットした。

コース:@の地点(スタート地点)→38分→Aの地点(佐屋街道の道標)→53分→Bの地点→
          22分→Cの地点(豊国通6の交差点)→20分→Dの地点→12分→Eの地点(万場の
     渡し跡)→34分→Fの地点(高札場跡)→41分(藤島神社立ち寄り)→Gの地点(七宝
     焼原産地標柱)→15分→Hの地点(弓掛の松)→15分→Iの地点(神守の一里塚)→
     11分→Jの地点(神守宿跡標柱)→55分→Kの地点(埋田追分)→50分(明通寺へ立
     ち寄り)→Lの地点→14分→Mの地点(佐屋街道碑)→24分→Nの地点(くひな塚)→
     7分→Oの地点(さや舟場道標)→1時間19分→Pの地点(ふたつやの渡)→15分→Q
     の地点(東海道道標)→20分→Rの地点(長島城大手門)→11分→Sの地点(大松)→
     42分(大智院立ち寄り)→@の地点(アクアプラザながら)→47分→Aの地点(六華苑)
     →8分→Bの地点(七里の渡し)
日付:平成20年1月22日(火)、26日(土)、2月2日(土)
天候:いずれも晴れ
所要時間:全行程10時間33分(休憩を含まない。)
歩行距離:43.8km


        (↓開くのに少し時間がかかる)
    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくだ
  さい。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
   点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
 (3)高度表示については、約5m〜10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい る)。
 (4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

   @佐屋街道・美濃路と東海道の分岐点【北緯35度07分16秒 東経136度54分29秒】。出発点
     までは地下鉄「伝馬町駅」を利用した。東海道、宮の宿の寛政2年の道標が「さやつしま
     道」と教えている(街道を歩く--愛知とその周辺-- 加藤淳子著)。
   A佐屋街道の道標【北緯35度08分33秒 東経136度53分56秒】。金山新橋南交差点南西角
     に道標「南 左 さや海道 つしま道」がある。
   Bの地点【北緯35度09分05秒 東経136度51分59秒】。明治天皇御駐輦の碑を過ぎると、し
     ばらくの間歩道が途切れる。
   C豊国通6の交差点【北緯35度09分17秒 東経136度51分15秒】。ここから西は歩道あり。
   Dの地点【北緯35度09分22秒 東経136度50分26秒】。この付近はかつての岩塚宿であるが
     史跡らしいものは見当たらなかった。
   E万場の渡し跡【北緯35度09分18秒 東経136度50分09秒】。万場宿につての解説板あり。
     常夜灯があったが、いたずらされ壊されていた。
   F高札場跡【北緯35度09分47秒 東経136度49分24秒】。旧砂子村には高札場と地蔵堂が
     あった。
   G七宝焼原産地標柱【北緯35度10分19秒 東経136度47分56秒】。役場北交差点の北西角
     にあり。
   H弓掛の松【北緯35度10分19秒 東経136度47分11秒】。民家の庭にあるため発見しにく
     い。
     下田橋を渡りはじめての道を左(南)へ20m。右側に網戸を横に置いて封鎖された狭い
     路地 がある。そこからマンションの南側の庭を覗くと松の一部が見える。網戸の留め具を
     外して路地の入ってみたが、怪しまれそうで気がひけた。
   I神守の一里塚【北緯35度10分23秒 東経136度46分29秒】。塚には玉垣が巡らされてお
     り、一見鎮守様でも祀ってあるかと思うような様子で、ムクの老木が植えられている。
   J神守宿跡標柱【北緯35度10分40秒 東経136度46分20秒】。この付近はいくらか宿場らし
     い雰囲気を感じることができる。
   K埋田追分【北緯35度10分31秒 東経136度44分23秒】。道標によると、佐屋街道はここか
     ら橋を渡って南へ抜けていたらしいが、今は道がない。
     先日、図書館で見かけた「目で見る愛知 江戸時代(下)<国書刊行会>」に、まさにこの場
     所の絵図があったので、なにか嬉しくなってしまった。
     また、ここには津島神社の一の鳥居があったが、伊勢湾台風で折れ、そのままの状態で
     残っている。
   Lの地点【北緯35度09分37秒 東経136度43分50秒】。ここからは田んぼが広がっており、
     田園風景を見ながらのんびり歩く。
   M佐屋街道碑【北緯35度09分35秒 東経136度43分13秒】。変電所の南側に碑が建ってい
     る。
   Nくひな塚【北緯35度09分01秒 東経136度42分54秒】。芭蕉の句碑もある。
   Oさや舟場道標【北緯35度09分03秒 東経136度42分43秒】。尾張と伊勢を結ぶ水路の要
     衝は佐屋街道が開かれたことにより、津島湊から佐屋湊に移行した。しかし、その後土砂
     の堆積のためやがて佐屋湊は使用できなくなり、少し下流の川平湊(東名阪の北付近)が
     使用されるようになり、さらに明治の東海道が整備されたことにより佐屋湊は二百余年間
     の役目を終えて、七里の渡しとともにその歴史の幕を閉じた(明治5年)。
     以後は、「新東海道」が開かれ、熱田と佐屋湊よりかなり下流の前ヶ須の乗船場とは陸路
     で結ばれることとなった。
     さや舟場道標の位置から、道路を挟んで北側の交差点角には佐屋代官所址がある。さら
     に、その北側には第14代総理大臣の加藤高明の顕彰碑がある。
     また、この道標から道を挟んで西側の公園には佐屋三里の渡跡の碑が建っており、この
     場所にかつての佐屋川が流れていたことを示している。佐屋川は明治30年に廃川となっ
     た。
   Pふたつやの渡【北緯35度06分25秒 東経136度43分07秒】。地形の変化に伴い明治5年
     に佐屋三里の渡しが廃止され、前ヶ須新田が宿駅に指定され、昭和8年尾張大橋が完成
     するまで渡し場として使用された。
     この付近には竹長押茶屋、立田輪中人造堀樋門、水郷の塔、資料館前に弥富町道路元
     標などがある。
   Q東海道道標【北緯35度06分09秒 東経136度42分31秒】。2mほどの大きな道標で明治
     26年に設置された。
   R長島城大手門【北緯35度05分38秒 東経136度42分05秒】。蓮生寺が、明治9年に長島城
     の大手門の払い下げを受け、旧大手門を縮小して、同寺の山門として移築したもの。
   S大松【北緯35度05分32秒 東経136度41分53秒】。長島中部小学校は長島城の跡地に建
     設されたため、本丸南西隅にあったクロマツがそのまま残ったもの。樹齢は三百数十年。
     また、ここより東方約700mの地点にある願証寺には、長島一向一揆の殉教碑がある。
     信長は天正2年(1574)7万の大軍を率いて長島を攻め、降伏を申し出た門徒宗2万人
     余をことごとく虐殺したと伝えられている。

  以下、「21」以降の丸数字のフォントがないので紫色の丸数字を使用する。
   @アクアプラザながら【北緯35度04分54秒 東経136度42分03秒】。長良川河口堰のPR館で
     あるが、四階建ての贅を極めたものである。展示室には河口堰の役割を解説するための
     パソコンが4〜5台、クイズを利用した啓発用の端末も数台。プロジェクターを使用した映
     写室。河川に関するたくさんの蔵書。大画面のプラズマテレビ等々。見学者は私と家内と
     2人だけ。照明も暖房も充分すぎるほど。
     見学者数は平成7年4月からの累計で756000人と表示されていた。年間58000人の
     ためにこれだけの施設とは・・・。
     さらに疑問に思ったのは、堰と一体になっているりっぱな橋だ。隣の伊勢大橋は片側1車
     線の古い橋で、錆びたまま放置されており、古さを際立たせてあるようにさえ思われる。
     一方、河口堰の橋は設備の点検・補修のための車やバイクが1日数台走るのみ。
   A六華苑(旧諸戸清六邸)【北緯35度04分16秒 東経136度41分35秒】。和風と洋風の建物
     を連結しためずらしい建築様式で、加えて庭園は池泉回遊式で築造当時の形態がよく保
     たれており、みごとな遺構である。入苑料は300円。
   B七里の渡し【北緯35度04分05秒 東経136度41分49秒】。周囲はきれいに整備されすぎて
      おり、往時の渡し場を想像することは難しい。

  【参考資料:愛知の歴史と文化財(愛知県文化財保存振興会編集)、東海道さんさくマップ(財
   団法人中部建設協会発行)、海部地区広域ガイドマップ(海部地区広域行政圏協議会)、街
   道への誘い --ふるさと守山物語--(川本文彦著)】

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