塩付街道(名古屋市南区〜千種区)

江戸時代の初め頃は、笠寺台地(古くは島になっていた)の西から南にかけて塩浜が広がっていた。そこで取れた塩は「前浜塩」というブランドがつけられ、御器所台地を経て北へ向かう街道は、塩を運ぶ馬の行き交う塩の道であり、古出来町までの区間は「塩付街道」と呼ばれていた。
途中、飯田街道を通って信州へ、また古出来町からは山口街道、瀬戸街道、善光寺街道などを通って尾張、美濃、信州へと運ばれた。しかし、江戸時代中期を過ぎると瀬戸内海からの安くて白い塩に押され、後期には衰退していった。
塩付街道の起点については、いくつか説があるが、今回は最南端の大慶橋付近を起点にした。出発地点付近ではコースがはっきりせず、旧道らしき道を闇雲に星宮神社まで北上。
塩付街道は、瑞穂区役所〜昭和区役所の東側を通っているが、この区間では馬頭観音や地蔵堂は残っており、なかなかいい雰囲気である。しかし、それ以外では、ほとんど街道は消滅しており、当時の様子を想像させる糸口を発見することはできなかった。

コース:西来寺(@の地点)→1.5km→星宮神社(Aの地点)→0.7km→丹八山公園(Bの地点)
     →2.2km(桜神明社、東宝寺立ち寄り)→旧東海道と塩付街道の道標(Cの地点)→0.2
     km→富部神社(Dの地点)→1.8km(長楽寺および呼続公園立ち寄り)→Eの地点→1.4
     km(神明社立ち寄り)→Fの地点→0.1km→塩付橋(Gの地点)→1.3km→道分け地蔵
     (Hの地点)→2.9km→ みやみち地蔵(Iの地点)→3.5km(神明神社、善昌寺立ち寄り)
     →法応寺(Jの地点)→0.5km→馬頭観音(Kの地点)→0.4km→一畑薬師寺名古屋別
     院(Lの地点)→0.8km→大昌寺(Mの地点)→0.9km→旧軍用線跡(Nの地点)→0.2km
     →塩付街道の北端(Oの地)

       注)行きつ戻りつしながら、しかも数回に分けて歩いたため、各地点間の所要時間をはっきり把握できな
           かった。そのため、所要時間は省略し、キロ数のみを表示した


日付:平成20年7月1日(火)ほか
天候:晴れ
所要時間:推定4時間50分(休憩時間を除く)
歩行距離:18.4km

    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.、この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
  い。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)地図上での経緯度線の表示は省略した。
 (3)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

******************************************************************************

(各地点の説明)

   @西来寺【北緯35度04分46秒 東経136度56分21秒】。本堂西側にある広い寺の駐車場北西
     角に、儒学者「永井星渚(1761年生まれ)出生地」の解説板がある。小説家永井荷風(1879
     −1959)は星渚の子孫である。寺には荷風の追慕碑がある。
     500mほど北上し、国道1号線を横断してすぐ左側に光照寺がある。ここは旧知多街道沿
     いにあたり、光照寺には百観音堂と山田重忠(治承年間<1177-1181>に、笠寺城を築城)
     の碑がある。
   A星宮神社【北緯35度05分18秒 東経136度56分05秒】。創建は飛鳥時代で、楠の巨木が茂
     り、見るからに古めかしく威厳のある神社である。境内には下・上知我麻神社が祀られて
     いる。
     この神社のすぐ北側にある笠寺小学校の敷地内には「星崎城址碑」が立っている。
     また、学校のすぐ北側の丘の上に秋葉社があるが、ここの境内にも小さな星崎城址碑が
     ある。
   B丹八山公園【北緯35度05分34秒 東経136度55分58秒】。公園の道路沿いに「塩付街道」
     の碑が建っている。この公園には、ほかにも真偽を疑うような内容を刻んだ碑が所狭しと
     立っている。
     近くに住む易者さんがこれらの碑を建て、その後公園として名古屋市に寄付したもの。
   C旧東海道と塩付街道の道標【北緯35度06分15秒 東経136度55分59秒】。塩付街道の起
     点を富部神社付近とすれば、ここで東海道と交差することになる。
     なお、この道標は宿駅制度制定四百年記念として平成13年に設置された。
   D富部神社【北緯35度06分16秒 東経136度55分53秒】。松平忠吉(徳川家康の4男)が病気
     平癒を祈願・快復した報恩のために、慶長11年(1606)に本堂、祭文殿、回廊、拝殿を建
     てたと伝えられている。本殿は国の重要文化財に指定されている。
     すぐ、北側には動物霊園を備え、清水稲荷と一体となった特異なお寺「長楽寺」がある。寺
     の境内には、明国風衣裳の石仏がたくさんある。
     また、西側の呼続公園は昭和15年に長楽寺から名古屋市に土地が寄付され、昭和29年
     に開園したもの。
     後日、笠寺観音付近を歩いた際にこの神社を再訪問した。
   Eの地点【北緯35度06分27秒 東経136度56分14秒】。ここから、Fの地点までの道路は遊
     歩道のようにきれいに整備されており、車は南方向へ一方通行で、とても歩きやすい。
   Fの地点【北緯35度06分57秒 東経136度56分21秒】。南の方角から坂道を下ってくると、こ
     の地点で整備された道路は終了する。
   G塩付橋【北緯35度07分00秒 東経136度56分24秒】。川底まですっかりコンクリートに固め
     られた「大きな側溝」とでもいうような小川にかかる橋名として、「塩付」の文字が残っている
     とはうれしい限りだ。
        塩付街道はここから山下通交差点のやや西付近へまっすぐ伸びていたようだが、今は消失
     してしまったのでジグザグに陸上競技場の東側に向かう。
   H道分け地蔵【北緯35度07分18秒 東経136度56分52秒】。山下通交差点南角の三角地帯。
   Iみやみち地蔵【北緯35度08分26秒 東経136度56分12秒】。「右 みやみち、左 なるみみ
     ち」と刻まれている。当時は900mおきぐらいに馬頭観音が安置されていたそうだ。
     すぐ南にある川澄地蔵の碑文には「川澄地蔵大菩薩奉安三百年記念寛文7年(1667)奉
     安」とある。堂内には地蔵と馬頭観音が安置されている。
     また、この地点より1kmほど南にある2本の「名残の松」のうち1本は枯れていた。他の1本
     もそれほど古いものには見えなかったが、何代目かのものだろう。
   J法応寺【北緯35度09分34秒 東経136度56分20秒】。天正15年(1589)清洲に創建。清洲越
     を経て白川町へ。戦火で焼失後現在地に移転する。
     境内の南西角には、芭蕉門下の三十六俳仙の一人「月空庵露川(沢露川 さわろせん)」の
     句碑「丸屋こそよけれ 四角な冬ごもり」がある。
   K馬頭観音【北緯35度09分44秒 東経136度56分29秒】。右に「丸山 川名」、左に「古井 御器
     所」、また台座には「馬連中」刻字がある。今は西を向いているが、以前は南面しておかれ
     ていた。小さい役行者の石仏も祀られている。
   L一畑薬師寺名古屋別院【北緯35度09分54秒 東経136度56分35秒】。この付近からの街道
     の順路を青い点線で示したが、街の開発により、ほとんど消失している。
   M大昌寺【北緯35度10分15秒 東経136度56分28秒】。敷地のほとんどを、同寺が経営して
     いる若竹幼稚園が使用している。
     塩付街道に面した、寺のお堂には観音像が祀られている。
     水道みちを横断した東側には、名古屋新田頭「兼松源蔵」の屋敷があったが、兼松家が明
     治の末頃転居したため、今は何の痕跡も残っていない。
     また、水道みちを東に300mほど行くと、北側の民家の陰に「兼松正受」遺愛碑がある。た
     だし周囲の風景とはあまりにもかけ離れ、神霊スポットのような状態になっていた。
     もうひとつこの地区について追記するならば、この遺愛碑の南側一帯は、愛知織物合資会
     社(後に呉羽紡績株式会社に合併される)があった。工場は戦災で焼失してしまったので、
     戦後国鉄が買収し、数年前までJR職員の官舎がひしめいていた。しかし、今では「名古屋
     セントラルガーデン」なる分譲マンションと商業施設に変身し、かつての国鉄職員はため息
     をつくしかないだろう。国鉄の灯が、また一つ高見町4丁目4番地という地番とともに消え
     た。
   N旧軍用線跡【北緯35度10分40秒 東経136度56分26秒】。現在の北千種、若水一帯には陸
     軍兵器支廠と陸軍造兵廠千種機器製作所があり、前者とは明治39年、後者とは大正7年
     に引き込み線(名古屋陸軍兵器支廠専用線)により中央線と結ばれた。
     日中戦争開始(昭和12年)の頃からは、昼夜二交代制となって、5万人もの従業員がい
     た。
     しかし、昭和20年3月の空襲で一瞬にして廃墟となり、惨劇の証として、今も千種公園に
     は空襲による被弾塀の一部が残されている。
     また、現在千種公園南にある東市民病院は、かつて、今の千種駅付近にあった城東病院
     を近代化して、昭和30年に移設・再建したものである。
   O塩付街道の北端【北緯35度10分45秒 東経136度56分24秒】。都通沿いの駐車場と長屋風
     の建物に挟まれた、通路には物置があり、公道か私有地かわからないような狭い斜めに
     走る路地として残っている。それより北側は広い都通に吸収されて、街道の痕跡はないが
     これより200mほど北西の正覚寺北付近で東西に走る山口街道と交差していたのだろう。

  【参考資料:なごやの古道・街道を歩く(池田誠一著)、塩付街道(中沢正著)、千種村物語(小
          林元著)。南区の歴史ロマンをたずねて<旧街道のなぞに迫る>(企画・編集 加納
          誠、The SHOWA vol.1〜歩いてみませんか昭和区〜(The SHOWA委員会)】

トップへもどる