「陶祖春慶翁の碑」の訳文

陶祖は、姓は藤原、名は景正で、加藤四郎左衛門という通称で、他に春慶という雅号を持っていた。また俊慶ともいい、死後ほめたたえて陶祖という。その祖父は橘知貞といい、大和の国の諸輪の荘の道陰村の人である。知貞は元安を生み元安は陶祖を生んだ。元安は罪を犯し、備前の国の松等尾に流された。母は平家の家柄で、山城の国の深草の人で、平道風の娘である。陶祖は幼い時に、ねば土をこねる事を喜んでし、土の器を作った。しかし、いつもその技が異国のものに及ばないのを悲しんで中国に行って学びたい心があった。もはや成長して大納言の久我通親に仕え、五位の諸大夫の役をさずけられた。結局、通親の第二子で僧であった道元に従って宋の国に渡った。その時は丁度宋の国の嘉定十六年であった。およそ六年留学して帰ってきた。舟を肥後の国の川尻に着け、そこで持ち帰った土で、小さな壷三個を舟の上で作り、入宋の副の長であった北条時頼と道元とに奉った。以後、それを国内では珍しい物として伝えた。陶祖は帰国した時二十六歳であった。そこで父を流されの場所に見舞い、遂にそこに止まって陶器作りをした。次に母を深草の里に行き、側に付き添って世話をした。程なく母は亡くなった。そこで陶器作りを都や都付近とその近くの国々でためしてみた。また陶器作りを此の尾張の国の知多郡や愛知郡でやってみたが、すべてよく出来なかった。結局此の国の山田郡の瀬戸村に来て、祖母懐の土地柄を見て、この土地を優れたものとして、言うのには「地形は南に開け、山並みは高く、川水は美しく、土の質もまた持ち帰った土と違わない。」と。遂に陶器作りのわざをこの地に始め、一生再び他の土地に移らなかったという。またこんなにも言っている。陶祖の祖母がよい土を瀬戸の雨池の洞穴で見出し、その土を懐に入れて帰って来たので、これを祖母懐というのだと。また一説には、祖母懐の土は陶祖が瀬戸村の神社の深川の神様にお祈りして夢のお告げで手にしたものだと。瀬戸村は山田郡に属し、今は春日井郡に合併しておる。思うに昔はこの土地は陶器作りによい土地であった。日本後記や延喜式、和名鈔、朝野群載などの古い書物を調べてみると、その時代に天子が焼き物を此の尾張の国に取り立てる時には、きっと此の瀬戸の郡であった。時代が下って陶祖の時になっても昔の事柄を聞き知っていた。だから成功し易かったと言われる。陶祖の住宅のあとを中島という。瀬戸村の深川神社の東の辺の田畑の中にある。杉の木一本を植えて目印としている。またその北に禅長庵と呼んでいる土地がある。陶祖は老後には家の事を息子に任せ、自分は禅長庵で、細君は住宅の土地で、それぞれうらない択んで家を構え一生を終わる処としたと伝えている。陶祖が亡くなった年についてはどの本にも調べられていない。墓は五位塚という。村の東の古い窯のある馬ヶ城という処にある。今日では陶祖が手作りででかしたものは此の土地には残されていない。ただ村の社のみすの中に一対の獅子の焼き物が安置されており、陶祖の手作りのものだと伝えられているが、それもその半分がなくなっている。村人の藤という字のつく姓の者はみな陶祖の子孫である。子孫の者がともどもに陶祖のほこらをつくり陶彦社といい、また窯神と呼んだ。毎年行う祭礼は三月と八月との十九日で、三月には獅子を舞わせ、八月には馬を走らせている。子の藤五郎、孫の兎四郎より始めその後の者は代々陶祖の仕事を受け継いできた。左伝の中にこんな事が言ってある。「九つの功用の恩徳はそれぞれみんな歌にして称えるのがよい。この歌を九つの歌という。」と。陶祖はこの九つの功用の中の一つを持っている。どうして歌にしてその功用を人々に教え導き、陶祖の恩徳を破らないようにさせないのか。さて、歌にして称える。

陶祖は、昔海に浮かんで広い彼方に渡った

天の果てにどうして速やかに向こう岸が見られたことか

海も川のように穏やかで代わる代わる陶祖の舟を護り送った

海に住む恐ろしいみずちや龍それに大亀とすっぽんもましてしいて妨げをしようか

留学することが暫くで技術は師よりも優ぐれた

ひとたび礼して別れ此の時に舟で帰国した

神仙が住む海中の島々にも次々に出遇い

舟帆の腹には一杯風を含み高く帆柱を立てて舟は進む

魚の目は波間にきらめいて美しく万里の波路を行き

大海亀の背に立つ奇しき国々も陶祖の天運の長いのを祝った

帰って来てみると故郷には皆心配がなく

孝心の深かった陶祖には遠出をしても自然と定まった場所があり

父母の許に帰って来た。

孝養に恨みを残す事なくあちらこちら

遠くまでも行ったりしていくばくかの生活のかてを得たりした

かくしてここかしこで土のたちをためし

山の険しさや苦しみも味わい尽くした

後になって昔から陶器作りをしていた山田郡にやってきた

山は高く水は清く南に開けた土地である

この土地柄を楽しんで代々居住して子孫が陶器作りを家業とした

思えば埴(はに)を好んで夢のお告げで得て祖母が懐に収めてきたのによる

終わりには今から世の中の後々の人々は

陶器を呼ぶのにきっと瀬戸村の名でするであろう

陶祖の九功の徳は歌にするのがよい

陶器が日常の使用を便利にする功徳の残された恵みは日本国中に行き渡る

 

慶応二年丙寅の歳の二月に尾張の国の阿部伯孝が此の詩文を作った。

【参考文献:陶祖春慶翁之碑 訓訳(村瀬一郎著)・・・瀬戸市立図書館所蔵】



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