飯田街道(伊奈街道)その2<日進市赤池〜枝下大橋>


今回歩いた範囲では、大井橋までは立ち寄ってみたい箇所もまばらで、どんどん先へ進むことができた。ただし、三ケ峯峠は米野木付近より70mほどの高低差があり、長い登り坂が続き、汗まみれ。嘗ては、荷車を引いたり、馬車で往来した人々の苦労が偲ばれる。
頂上付近に名古屋商科大学があり、そこへ通学する学生達は、車やバイク、自転車、徒歩と様々だが、どうしても自転車やバイクの学生が目につく。男も女もどんどん坂を登って来る様は、なにかユーモラス(失礼!)でもあった。しっかり体力をつけてね!
その先の保見地区に散在する城跡については下に述べるが、伊保小学校前の県道南側に沿った水田一帯からは、弥生時代〜古墳時代にかけての住居遺跡がいくつも見つかっている。しかし、ほとんど残されることなく整備され、美田と化した。北部の市道沿いの遺跡の大半も保見団地に通じる道路となってしまった。
もう一つ残念に思ったことがある。平成16年3月31日に廃線となった名鉄三河線の線路も駅舎も荒れ放題で、草に覆われ整備されないまま放置されていて、栄枯盛衰とは言わないが、感慨深いものがあった。サイクリングコース等の整備計画はあるようだが、進んでいるとは思えない。
なお、ここに掲載した地図は、4回に分けて歩いた結果をまとめたものである。

コース:平針駅(@の地点)→2.9km→聖人塚(Aの地点)→3.0km(野方三ツ池公園、東陽寺立
     ち寄り)→白山古墳(Bの地点)→2.8km→石橋(Cの地点)→1.2km→庚申堂(Dの地
     点)→0.6km→下川田橋(D-1の地点)→2.5km→三ケ峯峠→1.0km→鶏石(Eの地点)
     →2.2km→弘法堂(Fの地点)→1.0m→保見西城址碑(Gの地点)→1.8km(東畑一号古
     墳、射穂神社立ち寄り)→永福寺(Hの地点)→0.5km→保見東城址碑(Iの地点)→
     1.3km→伊保塚(I-1の地点)→1.4km→観音像(Jの地点)→4.8km(貴船神社、江古
      山遺跡、長善寺、貝津神社、延命寺立ち寄り)→道満さんの祠(Kの地点)→0.2km→
     旧飯田街道標識(Lの地点)→0.3km→観音堂(Mの地点)→0.6km→四郷村宝暦義民
     之碑(Nの地点)→0.6km→アベマキ(Oの地点)→2.5km→御船城址碑(Pの地点)→
     1.1km→お舟石(Qの地点)→2.6km→旧枝下用水取水口(Rの地点)→0.5km→わくわ
     く広場(Sの地点)
日付:平成23年5月14日(土)ほか
天候:いずれも晴れ
所要時間:8時間50分(寄り道を含む)
歩行距離:35.4km(寄り道を含む)

    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
  い。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
   点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
 (3)高度表示については、約5m〜10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい る)。
 (4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

   @平針駅【北緯35度07分21秒 東経137度00分27秒】。地下鉄を降りて南へ220m行くと、
     飯田街道だ。
     逆に、北へ直線で960m先には中電の防空壕がある。この防空壕は、昭和17年(1942)
     に、配電盤を死守する職員の予備要員が避難するために造られ、当初は電力所本館に側
     して同様のものがもう一基あった。防空壕としては鉄筋コンクリート製の強固なものは非常
     にめずらしい。
   A聖人塚(しょうねづか)【北緯35度07分42秒 東経137度01分56秒】。道路脇の2mほどの小
     山で、説明板がなければ気付かず通り過ぎてしまうような旧蹟だ。
     言い伝えによると、「昔、ある僧が、鈴を持ち、『音がしなくなったら、入定(死去)したと思っ
     てくれ』と言い残し、生きながらに土中に入ったという。寛政5年(1793)の野方村絵図にも
     記されている。
     すぐその先に、野方三ツ池公園の表示があったので、階段を登ってみると池の中に木道が
     渡してあり、さらに階段を登ると遊具などが設けられた広場があった。
   B白山古墳【北緯35度08分21秒 東経137度02分49秒】。香良州神社から白山神社へと巡っ
     た後、石段を下りる途中、左側にあった。
     直径約14mの円墳で、石組みで築かれた横穴式の石室は全長7m、幅約2mで入口はラ
     ッパ状に開いており、そのまま墳丘の裾を根巻石がめぐる構造となっている。出土品から
     6世紀代と推定される。
   C石橋【北緯35度07分56秒 東経137度03分38秒】。郵便局を通り越してまもなく右手奥に通
     じる路地がある。橋と言っても、現在は5本の切石が並べられているのみ。うち1本は後に
     新しく継ぎ足したものである。この石橋には銘文もなく、いつの時代のものかわからないが
     弘化4年(1847)の村絵図によると、この辺りの街道は枡形になっており、検問所があ
     ったという。石橋を渡って進むと民家へ入っていきそうだったので、確認のみに留める。
     写真はこちら
   D庚申堂【北緯35度08分06秒 東経137度04分19秒】。高速道路をくぐる直前、左側の高台
     にある。堂の中にある石仏は青面金剛童子石像で、耳の聞こえない人に御利益があると
     信じられてきた。堂の右側に「南無阿弥陀仏」と刻まれた六字名号石碑がある。これは元
     禄4年(1691)建立。
   D-1下川田橋【北緯35度08分18秒 東経137度04分36秒】。平成18年8月に、天白川に沿
     って歩いた時、通過した地点である。
   E鶏石【北緯35度08分39秒 東経137度06分30秒】。室町時代の末頃に、足助次郎重範の
     家臣で加納歳武知という武士がこの田籾の地に百姓となり移り住んだ。彼がある朝いつも
     のように耕作に励んでいると、そばの林の中から鶏の鳴き声が聞こえた。不思議に思って
     林の中に入ると牛2頭ほどの大岩からこの鳴き声がするのである。この話を伝え聞いた村
     人は、この岩の鳴き声を聞こうと思い、そうっと早起きするようになった。そしてこの早起き
     の習慣とともに田籾村は栄えたという。
     この先350mの地点にある、常夜灯のある広場を左折し、車の洪水から逃れることがで
     きた。この広場の隅にある常夜灯の台座には、いくつかの盃状穴(はいじょうけつ)があっ
     た。そう言えば、新美南吉生家前の常夜灯にも盃状穴があったことを思い出した。
   F弘法堂【北緯35度08分19秒 東経137度07分26秒】。切り立った岩山の下に、三面八臂の
        馬頭観音が脇侍を左右に従えて建っている。銘は「上伊保馬車事業組合」「大正六年」と
     ある。馬頭観音の前面下には馬の水飲み場がある。
     左奥には役行者が小祠の中に祀られている。
     また、向い側の橋のたもとには道標があり、中央に「馬頭観音」、その下に「右せと道 左な
     ごや道」「大正元年」と刻まれている。
   G保見西城址碑【北緯35度08分22秒 東経137度07分31秒】。了喜院、和徳寺の前を通り
     過ぎて、さらに80mほど行くと左側のガードレール脇に「伊保西古城址」の小さな案内板が
     立っている。矢印に従って左折し、坂道を登り、集会所(小さな神社)の前で左へ登る草で
     覆われた階段がある。登り詰めると、広っぱになっており、中央に「伊保西古城址」の碑が
     立っている。室町時代から戦国時代にかけて三宅氏が居城したと伝えられる。その後、織
     田氏の家臣佐久間信盛が居城したという。広場の隅には、城址の説明板がある。
   H永福寺【北緯35度08分22秒 東経137度07分50秒】。豊田市内唯一の黄檗宗の寺院で、
     山号を大好山といい、天和3年(1683)に創建され、中国風の伽藍様式が今に伝えられ
     ている。江戸時代初期の伊保藩主であった本多家の菩提寺で、寺領100石が与えられて
     いた。本堂正面の右側につり下げられている雲版は寺院において儀式や時を告げる道具
     として用いられた。永福寺の雲版は形が優れ、銘によれば元禄9年(1696)伊保藩主(1万
     5千石)本多忠晴によって寄進されたことが記されている。
   I保見東城址碑【北緯35度08分30秒 東経137度07分49秒】。下欄の資料によると、「古くは
     三宅氏の居城と伝えられるが、永正7年(1510)伊保神社再建の棟札に「東城主松平右
     衛門尉定勝」とあり、松平氏の居城であった。城跡は保見中学校の造成で大きく破壊され
     北半分が運動場と化したが、南半分に削り残された主郭と堀が見受けられる。」とあるが、
     城跡碑を確認したのみ。
     なお、東城址碑へ行く途中、公民館(豊田市職員会館東付近)の前を通ったが、その南側
     の薮の中が保見城址らしいが、民家の裏側でもあり、未確認。
   I-1 伊保塚【北緯35度08分11秒 東経137度08分00秒】。伊保小学校のすぐ東の民家の裏
     にあり、池がかろうじてその姿をとどめている。「伊保塚」碑はまだ新しい。
     記録が残っている寛政4年(1792)以前から、願い事を叶える塚として広く知られていたよ
     うである。
    J観音像【北緯35度08分20秒 東経137度08分23秒】。貴船神社の入り口に「観音堂 これよ
     り四丁」の碑が立っている。その道を上っていくと両側にずっと石仏がならんでいる。その
     先には満願即得と刻まれた台座の上に観音像が祀られている。さらに小高い丘の上には
     小さな社がいくつか合祀されていた。そこに立つと、東から南にかけて大きく展望が開けて
     いる。
      K道満さんの祠【北緯35度07分32秒 東経137度09分48秒】。戦国時代のこと、梅坪の城主
     三宅右衛門高信に、大学という息子がいた。彼は三宅道満と自らを名乗り、花本に住んで
     いた。そのうち、人を傷つけたり殺したりしたため、ついに捕らえられて斬首の刑に処せら
     れた。住民は今まで苦しめられてきたにもかかわらず、彼を哀れんで、その首を花本の墓
     地に、胴体は下古屋の現在地に祠を作って葬った、と言い伝えがある。現在、下古屋区民
     により、春秋二回供養祭が行われている。
     このすぐ東側にある下古屋集会所前広場の角には六臂の馬頭観音が立っている。
   L旧飯田街道標識【北緯35度07分35秒 東経137度09分50秒】。小さな川の堤防上を、草を
     踏み分けながら歩いて行くと、目の前にこの標識が見える。この街道は浦野酒造(菊石酒
     造)の土塀に沿った、幅2mたらず、長さ50mほどの道で、今は通る人も無くひっそり当時
     の面影をとどめている。
     菊石酒造の店の前を過ぎて右折すると、左に常夜灯がある。これには、文政十丁亥十一
     月吉日(1827)と刻まれている。
   M観音堂【北緯35度07分36秒 東経137度10分01秒】。お堂の中には、カラフルなよだれ掛
     けをつけ、帽子をかぶった30体ほどの石仏が並んでいる。前に立っている説明板による
     と、「明治末期、お鍬山全体に八十八の祠を造り、弘法さんの石仏を安置した。麓には本
     堂も造られ親弘法の像を祀り、近郷近在の人たちで賑わった。昭和38年に土地所有者が
     外部の人に代わったため、下古屋の弘法さんは延命寺に、天道は観音堂に安置された。」
     なお、お鍬山は西南西1.1km。延命寺は南へ450m。
     80mほど先の四郷町山畑の交差点に嘉永3年に建てられた道標がある。「右 伊勢宮名
     古屋道 左 善光寺道」、もう一面には「左 岡崎道」とある。
   N四郷村宝暦義民之碑【北緯35度07分50秒 東経137度10分10秒】。この碑は雲龍寺山門
     の前にある。宝暦2年(1752)、挙母城築城中に領内の飯野村八兵衛ほか計15名を総
     代として、江戸藩邸に強訴するという事件が起こった。後に首謀者八兵衛ら6名が斬首さ
     れた。そのうち四郷村関係者の供養塔が雲龍寺にある。
   Oアベマキ【北緯35度07分44秒 東経137度10分15秒】。街道から少し入った墓地に、枝張り
     の直径が30mもある風格ある、樹齢100年以上の古木がある。根廻りは4mあり、昭和
     45年に豊田市から名木の指定を受けた大樹である。
   P御船(みふね)城址碑【北緯35度08分10秒 東経137度11分33秒】。田圃の中にぽつんと碑
     が立っているが、近づく道がない。あぜ道からなんとかたどり着いた。城主は応仁の乱に
     際して戦功があった児島右京義明と伝えられている。御船川を外堀として利用し築城され
     た平城で、南北190m、東西150mの長い矩形であったと考えられている。
   Qお舟石【北緯35度07分49秒 東経137度11分49秒】。お舟石に通じる小径の入口付近はシ
     ラヒゲソウが自生しており、その案内板が立っている。木道を歩き、坂道を三河線の廃線
     跡に向かって登っていくと線路の直下に、大岩がありその上に注連縄を巻いた碑が目に飛
     び込んできた。
     そばの説明板によると、「御舟石は、伝えによれば、ある年洪水があり、猿投の神が御舟
     に乗って、御船川を下られた折り、2柱は猿投山上にとどまり、1柱はこの地に来られた。こ
     の石は神の召された舟であるという。昭和2年三河線工事の折、御舟石が埋められそうに
     なったためか、作業員が負傷するなど事故が多発したため、そのまま原位置に保存し『お
     舟石』の碑を建立した。」
   R旧枝下用水取水口【北緯35度08分32秒 東経137度12分31秒】。この取水口は、矢作川か
     ら水を取り入れる重要な場所で「枝下用水」の名称の由来となっている。川岸まで降りてみ
     たが、川底に土台、石垣などがわずかに見えただけだった。
     また、この灌漑事業に私財を投じて難事業を推進した「西沢真蔵」の肖像画が説明板に描
     かれていた。彼の名前は枝下自転車道を歩いた時、「分水池」(豊田市御幸町2)の説明板
     にも掲載されていた。
   Sわくわく広場【北緯35度08分41秒 東経137度12分33秒】。平成16年3月31日に廃線となっ
     た三河線の旧枝下駅前の広場。ホームには駅名板が残っており、電車の好きな人には見
         逃せないポイントだろう。待合室には、廃線跡についてのサイクリングロード、遊歩道の設
     置などの整備計画図が張ってあったが、実現の見通しが立っているとは思えない。
   
    【参考資料:愛知県歴史の道調査報告書8<飯田街道・足助 街道>(愛知県教育委員会文
     化財課 編集)、尾張の古城(篠山忠 著)、史跡散策「愛知の城」(山田柾之著)、Web site
     「ちまき亭」さんの名古屋近郊の旧街道のルート】

    
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