名古屋市守山区南西部の散策

小幡緑地東園から出発し、南へ西へと歩いてみた。区内でウォーキングに最適な場所は水道道緑地だろう。今回はそれを除いてみどころを探してみた。「小幡緑地およびその周辺」を歩いた時と同様神社、仏閣、古墳、城址など多くの史跡に接することができた。特に、志段味地区に集中している古墳群がこの付近まで伸びていることを知って、なんとなくこの地区における古代の俯瞰図を想像してしまった。
車で移動していると、つい立ち寄るのが億劫になってしまい見過ごし勝ちな場所も、今回は丁寧に歩いて回ることができてとても興味深かった。
なお、作成した移動軌跡の地図は何回か訪れた結果をつなぎ合わせたものである。


コース:P 小幡緑地東園駐車場→1.5km→齋穂社(@の地点)→0.9km→法輪寺(Aの地点)→
     0.9km→大森寺(Bの地点)→2.6km(唐九郎記念館経由)→小幡茶臼山古墳(Cの地
     点)→0.6km→小幡長塚古墳(Dの地点)→3.7km(旧笠寺道駅立ち寄り)→龍泉寺街
     道道標(Eの地点)→0.3km→長慶寺(Fの地点)→1.6km→長命寺(Gの地点)→1.5km
     →小幡城址(Hの地点)→0.9km→瓢箪山古墳(Iの地点)→1.8km→大永寺(Jの地
     点)→1.8km→防人の楠(Kの地点)→1.5km→白山神社(Lの地点)→0.4km→守山城
     址(Mの地点)→1.0km→矢田川橋親柱(Nの地点)→0.1km→長母寺(Oの地点)・・・
     ・・・・帰路は省略

       
日付:平成20年8月18日(月)、12月13日(土)ほか
天候:いずれも晴れ
所要時間:推定5時間30分(休憩時間を除く。)
歩行距離:21.1km

    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくだ
  さい。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)地図上での経緯度線の表示は省略した。
 (3)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

       P 小幡緑地東園駐車場【北緯35度13分02秒 東経137度00分39秒】。この公園は以前「卓
     ケ洞(しょくがほら)公園」という名称だった。広い芝生とメタセコイヤの並木がきれいな公
     園である。
   @齋穂社【北緯35度12分31秒 東経137度00分18秒】。天武天皇の御代白鳳5年(673年)
     秋9月大嘗祭にあたり尾張の国山田郡印場村渋川地内に悠紀齋田を点定し、齋場の稲穂
     をここに移し積み新穀を精選し献上した処にしてこの地に齋穂社を祀った。
   A法輪寺【北緯35度12分29秒 東経137度00分01秒】。天正元年(1584)小牧・長久手の戦
     いで焼失、寛文年間(1661-1673)澄然和尚が現在地に再建。安永3年(1774)に正法寺か
     ら法輪寺に改名。境内にはこの寺の創建時の歴史と関連深い佐藤親子の墓と伝えられる
     3基の五輪塔がある。
   B大森寺【北緯35度12分28秒 東経136度59分49秒】。本尊は阿弥陀如来。二代藩主光友
     の生母「歓喜院」乾の方の菩提寺として乾の方の故郷大森に寛文元年(1661)創建。中門
     に掲げられた山号の額は光友の真筆である。明治8年の火災で、創建以来の建物は焼失
     したが本尊は無事であった。本堂の裏には歓喜院の宝筺印塔が建っている。
   C小幡茶臼山古墳【北緯35度12分33秒 東経136度59分09秒】。次に掲げた小幡長塚古墳
     などとともに小幡古墳群の中核をなす前方後円墳であるが、宅地造成や道路工事による
     破壊が著しく旧形をうかがうことができない。遺物から6世紀中ごろの古墳と考えられる。
   D小幡長塚古墳【北緯35度12分25秒 東経136度59分00秒】。小幡原に現存する前方後円
     墳の中では最大のものである。墳丘の所々に溝が走っているがこれは今次大戦中に掘ら
     れた塹濠の跡である。
   E龍泉寺街道道標【北緯35度12分10秒 東経136度58分31秒】。ここ小幡は江戸時代、北へ
     は竜泉寺街道が、南は笠寺街道がのびており守山の地理的な中心であるとともに尾張
     四観音の竜泉寺と笠寺を結ぶ街道の接点にもなっていた。この道標の建立当時(1763)の
     正確な位置は把握できていないが瀬戸街道沿にあったと思われる。
   F長慶寺【北緯35度12分15秒 東経136度58分30秒】。「尾張志」に、山田重忠が父母と兄の
     菩提を弔うため長父、長母、長兄の三寺を創建、後に兄を慶に改め今の寺号にした、とあ
     る。
     また、寺伝では、山田正親が兄兼継の菩提を弔うために、建長年間(1249〜1256)南山士
     雲を開山として創建したとある。
   G長命寺【北緯35度12分41秒 東経136度58分17秒】。鎌倉時代、山田次郎重忠の創建にか
     かり、長母寺開山の無住国師が開山であると伝えられている。小牧長久手の戦火により堂
     宇、縁起などを焼失。元禄13年に旧号の光常寺から長命寺へ改号され、ここに雪渓恵恭
     を開山とする長命寺が再登場した。現在の本堂は昭和31年に再建されたものである。
   H小幡城址【北緯35度12分18秒 東経136度58分03秒】。大永2年(1522)岡田重篤が築
     城したといわれている。北側、西側は崖になっていて城を築くには最適の場所だ。
     天文4年(1535)家康の祖父清康が尾張に軍を進めた時在城し、また織田信光の居城に
     なったが、のち廃城となった。天正12年(1584)家康が修復し長久手の役には三河との
     連絡の城として活用した。
   I瓢箪山古墳【北緯35度12分03秒 東経136度57分50秒】。6世紀初頭のものと推定され、内
     部主体もそのまま残るなど保存状態も良好で、市の史跡に指定されている。戦前は周濠に
     水もあったと言われているが、現在は埋め立てられ公園用地になっている。整備の際に埴
     輪の破片が採集された。
   J大永寺【北緯35度12分31秒 東経136度57分30秒】。建久元年(1190)尾張源氏山田次
     郎重忠が父重満の17回忌にあたり、菩提を供養するために、この寺を建立した。永正7
     年(1510)に至り兵火のため焼失した。大永元年(1521)重忠の後裔、小幡城主岡田重
     頼が再建し、年号をとって大永寺とした。元和3年(1617)に、岡田善同によって、小幡か
     ら現在地に移し再建された。境内には岡田氏歴代の墓が並んでいる。
     現在の本堂は、当山28俊成和尚が昭和5年(1930)に再建したものである。
   K防人の楠【北緯35度11分51秒 東経136度57分29秒】。陸上自衛隊第十師団司令部正門
     横にある。説明板には「明治30年8月(1897)この地に歩兵第33聯隊が創設され、その
     後騎兵第3連隊、野砲兵第3連隊と変遷、昭和34年第10師団司令部の所在地となった。
     この楠は創設以来、栄枯盛衰の歴史の中風雪に耐えてきた。」とある。
   L白山神社【北緯35度11分48秒 東経136度57分05秒】。菊理媛命(くくりひめのみこと)を御
     祭神として元正天皇の養老年間(717〜724)加賀の国より勧請すと伝えられ前方後円の
     上古の古墳上に鎮座。現在の神殿は昭和46年に再建されたもの。
     すぐ東にほんのわずか50mほど旧瀬戸街道が残っている。
   M守山城址【北緯35度11分52秒 東経136度56分59秒】。宝勝寺北側のアパート横をよじ登
     ったところに城址碑が立っているが、かなりわかりにくい。
     築城年代、創建者ともに不詳。天文4年(1535)徳川家康の祖父松平清康が大軍を率い
     てこの地に布陣、尾張攻略を図ったが家臣に殺害された。その後、織田信長の叔父信次、
     その弟の信時が城主となり、桶狭間の戦後、廃城となったとされる。
   N矢田川橋親柱【北緯35度11分46秒 東経136度56分48秒】。水防倉庫の横に明治17年と
     刻まれた親柱が残されている。
   O長母寺【北緯35度11分47秒 東経136度56分45秒】。治承3年(1179)山田重忠が創建。
     その後荒廃していたが、弘長3年(1263)山田道園坊夫妻が母親のために再建し、長母
     寺となった。この時、天台宗から臨済宗に宗派を改め、無住国師を開山とした。天和2年
     (1682)尾張2代藩主光友の命により衰微していた寺は再興された。

   
    【参考資料:矢田川物語(小林元著)、街道への誘い--ふるさと守山物語--(川本文彦)、愛
          知の城(山田柾之著)、愛知の史跡と文化財(愛知県文化財保存振興会編)
          名古屋市のウェブサイト<守山区歴史散策>、医王山長命寺誌(道木正信編集)】
                                              (2009.5.20一部修正)
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