中山道<揖斐川鷺田橋〜垂井宿>(瑞穂市〜垂井町)

中山道の垂井宿は既に美濃路を歩いた際に立ち寄ったので、今回は赤坂宿を中心に散策したが、見どころが多く立ち寄れなかった史跡がいくつもあったので、後日再度訪問の予定である。
赤坂が中山道の宿駅として指定されるまでは、西隣の青墓町が東山道の宿駅として利用されており、赤坂は杭瀬川の渡船場として、船を待つ旅人のために宿が設けられ、発展し、水運の町として栄えた。
宿場内は車の交通量が多く、気を抜くことができず、横道へそれて金生山神社へ登った時はほっとした。
帰りは垂井駅から大垣まで列車に乗り、大垣駅から駐車地点まで歩いた(掲載省略)。
垂井宿は交通の要所で、宿の北には大化の改新以後に置かれた美濃国の国府跡が残る。鎌倉時代には鎌倉街道の宿場、そして江戸時代には中山道と美濃路の分岐点として栄えた。
南宮大社の門前町で、毎月、5、9の日には大鳥居で六斎の市が立ち、にぎわった。五街道で初めて大八車の使用が許可された宿場でもある。
なお、地図上の紫線については別途歩いた際の軌跡を参考までに追加記載したものである。

コース:P駐車地点→6分→@の地点(小簾紅園)→17分→Aの地点(柳瀬一里塚)→1時間20
     分→Bの地点(赤坂港跡)→4分→Cの地点(赤坂本陣跡)→11分→Dの地点(金生山
     神社)→28分→Eの地点(昼飯大塚古墳)→1時間5分→Fの地点(追分橋)→3分→
     Gの地点(東の見付)→15分→Hの地点(西の見付)
     (I〜Kの紫線の移動軌跡関連の地点については省略)


日付:平成19年3月26日(月)
天候:晴れ
歩行時間:3時間49分(休憩、紫線の部分を含まない)
歩行距離:14.6km(紫線の部分を含まない)


    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.、この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
  い。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
   点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
 (3)高度表示については、約5m〜10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい る)。
 (4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

   P 駐車地点【北緯35度23分34秒 東経136度38分27秒】。揖斐川堤防上に駐車。
   @小簾紅園(おずこうえん)【北緯35度23分25秒 東経136度38分19秒】。呂久(ろく)の渡し場
     跡に和宮遺蹟として昭和4年に造られた(旧暦文久元年10月26日<1861>和宮当地通
     過)。
     ここには、揖斐川呂久渡船場跡の碑が立っている。古くから交通の要所で1610年ごろに
     は13の船頭屋敷があり、中でも最大の船年寄馬渕家には船頭8人、助務7人が置かれて
     いた。
     大正14年、木曽川改修工事が行われ、川筋が東に改められる新川付け替え工事が行わ
     れ、集落も移転。渡し場の歴史も幕を閉じた。
   A柳瀬一里塚【北緯35度23分23秒 東経136度37分49秒】。平野井川の北側の神明宮の境
     内に碑が立っている。この地点から300mほど@の地点方向へ戻った土手の上に道標(左
     木曽路  右 すのまた道)あり。
   B赤坂港跡【北緯35度23分26秒 東経136度35分06秒】。杭瀬川を渡り、200mほど西へいく
     と改修前の杭瀬川だった廃川敷がある。ここがかつて栄えた赤坂港跡である。金生山の石
     灰産業が盛んだった絶頂期の明治末には、300艘の船が出入りしていた。
   C赤坂本陣跡【北緯35度23分25秒 東経136度34分57秒】。現在、本陣公園となり、和宮顕
     彰碑、赤坂出身の幕末の蘭医志士「所郁太郎」像がある。トイレあり。
     ここから西へ150m行くと、脇本陣跡(現在は榎屋旅館)がある。
   D金生山神社【北緯35度23分37秒 東経136度34分45秒 標高80m】。境内には桜が植えら
     れている。神社の駐車場からは東方向に展望が開けている。反対方向には石灰工場群が
     みえる。さらに山の上の明星輪寺まで行きたかったが、今回は断念。
   E昼飯(ひるい)大塚古墳【北緯35度23分13秒 東経136度34分17秒】。東海地方最大級の
     規模の前方後円墳。中山道からこの古墳への案内標識は見当たらなかった。
     この付近の中山道沿いでは、古い門構えのりっぱな家を何軒も見かけた。
   F追分橋【北緯35度22分23秒 東経136度31分53秒】。ここで美濃路と中山道が合流してい
     る。道標あり。
   G東の見付【北緯35度22分20秒 東経136度31分47秒】。見附は宿場の入口に置かれ、宿の
     役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常時には閉鎖した。ここから766mにわたり
     垂井宿の街並みが続き西の見付に至る。
     また、ここは人足渡跡でもあった。相川は昔から暴れ川であったので、江戸時代初期には
     人足渡しによる渡川が主であった。
     たまたま数日前から、相川橋西側の相川河川敷公園で「こいのぼりの群泳」が始まってい
     た。垂井町観光協会が20年前から行っているイベントで350匹の鯉が青空に泳いでいた
     (5月5日まで)。
   H西の見付【北緯35度22分19秒 東経136度31分18秒】。垂井宿の西の入口であり、安藤広
     重の垂井宿の浮世絵ポイントにもなっている。

  【以下参考情報】・・・紫線コース関連
   I春王・安王の墓【北緯35度22分06秒 東経136度31分22秒】。永享の乱で敗れた足利持氏
     の遺子、春王丸(13歳)、安王丸(11歳)は、結城合戦で幕府方の捕らわれの身となり、嘉
     吉元年(1441)に京都へ護送の途中、垂井の金蓮寺で処刑された。この兄弟の殺害が里
     見八犬伝の発端になっているとか。
     この墓所の横に「池田輝政陣跡」の立て札がある。池田輝政は関ヶ原合戦では東軍に属
     し、織田秀信のこもる岐阜城を攻略、合戦当日は南宮山の西軍に備え、このあたりに陣を
     構えた。
   J南宮神社【北緯35度21分38秒 東経136度31分31秒】。金山彦命をまつる美濃国一のの宮
     で、鉱山金属業の総本山として広く全国から崇敬されている。関ヶ原合戦で社殿、堂塔が
     焼失。現在の社殿は寛永9年(1642)、三代将軍家光が再建した。
     また、神社の南側から南宮山展望台(404m)へのハイキングコースが整備されている。
   K朝倉山真禅院【北緯35度21分43秒 東経136度30分59秒】。かつては南宮大社の僧坊とし
     て神社の境内にあったが、明治元年神仏分離により三重の塔とともにこの地に移築され
     た。
   L専精寺【北緯35度22分12秒 東経136度31分31秒】。専精寺の山門脇に垂井城址の石碑
     と案内板があり、ここは関ヶ原合戦において活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡とい
     われている。

      参考資料:岐阜新聞社発行「中山道ウォークinぎふ」、今井金吾著「今昔中山道独案内」

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