飯田街道(伊奈街道)その3<枝下大橋〜伊勢神峠>


このコースでは、足助の市街地において見どころが多く、なかなか前へ進めなかった。それだけ足助には長い歴史があり、しかも町並みの保存に力を入れてきたということだろう。
香嵐渓や飯盛山のカタクリの花ばかりでなく、足助にはこんなに見るべきものがあったのかと、改めてびっくりした。
足助の町を抜けると、山間の道をひたすら歩くことになる。町を離れると江戸や明治・大正の石仏が今なお多数残されてた。それは取りも直さず、当時の人々が病気や飢饉、災害や悪政などのためにいかに苦しんだかを雄弁に語っている。
今回は、真弓山(足助城跡)には立ち寄らなかったが、城址はよく整備されており、見落とせないポイントである。歩くとかなり急坂だが、車で門まで行くことができる。私が以前訪れた時にはボランティアの説明員がいて、詳しく説明してくれた。
なお、ここに掲載した地図は、数回に分けて歩いた結果をまとめたものであるが、ファイルが大きくなり過ぎた点についてはご容赦ください。
また、参考として足助観光協会発行の「香嵐渓・町並み散策地図」を掲載しました。

コース:わくわく広場(@の地点)→27km→伊勢神峠(Sの地点)
     注)このコースでは寄り道が多く、主要地点間の距離表示は煩雑になってしまうので省略した。
     
日付:平成23年6月26日(日)ほか
天候:いずれも晴れ
所要時間:省略
歩行距離:27km(飯田街道のみの距離であり、寄り道した分の距離を含まない)

    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
  い。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
   点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
 (3)高度表示については、約5m〜10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい る)。
 (4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

   @わくわく広場【北緯35度08分41秒 東経137度12分33秒】。平成16年3月31日に廃線となっ
     た三河線の旧枝下駅前の広場。ホームには駅名板が残っており、電車の好きな人には見
         逃せないポイントだろう。待合室には、廃線跡についてのサイクリングロード、遊歩道の設
     置などの整備計画図が張ってあったが、実現の見通しが立っているとは思えない。
   Aしだれ桜【北緯35度08分45秒 東経137度12分35秒】。信号交差点の角に、豊田市の名木
     に指定されている根回り2mのシダレザクラがある。その背後には小さな谷川が流れ込ん
     でいて水車が設置されており、厳しい日差しを避けて、ほっとできる場所だ。
   B枝下の舟場跡【北緯35度08分50秒 東経137度12分43秒】。橋を渡る直前で、廃止された
     線路跡を跨ぎ、畑中の小径を河岸まで降りる。
     降りる途中には、引き舟を操るためのワイヤーの台座、水天明王の石碑と水飲み場があ
     る。
     この舟場は、飯田街道の主要な道で、唯一舟を利用して通行していた渡船場の跡である。
   C力石峠【北緯35度08分29秒 東経137度13分03秒】。峠には地蔵堂があり、ここで、東海自
     然歩道と交差している。
   D如意寺【北緯35度08分28秒 東経137度13分34秒】。寺の歴史等はこちら
     立ち寄った時は、本堂は改築中であった。
     向側には、三河新四国15・16番札所である広昌寺がある。
   E岩倉神社【北緯35度08分26秒 東経137度14分06秒】。ここには貴重な農村舞台が残され
     ている。舞台の規模は間口8間、奥行き5間、舞台の高さ2.7尺である。屋根は入母屋造
     り瓦葺きである。
     小屋裏に一対のセリ引き装置が残っている。舞台転換を迅速に行うための工夫である。
   F旧西中金駅跡【北緯35度08分23秒 東経137度14分11秒】。平成16年3月に廃線となった
     三河線の終点である。駅舎は当時のまま、放置されているように見えたが、国の登録有形
     文化財になっている。駅舎内に、「猿投〜西中金間の鉄道の歴史」が一覧表になって立て
     かけてあった。
   G野口雨情ゆかりの碑【北緯35度07分48秒 東経137度16分00秒】。ここ野口自治区に、野
     口雨情先祖のゆかりの地として、この碑が平成16年に建てられた。
     野口雨情は、七つの子、赤い靴、證城寺の狸囃子など多くの童謡を作詞しているが、他に
     も全国のご当地ソングをたくさん作詞している。(Web site「野口雨情の足跡」参照)
     また、隣接して「しゃくやく姫の塚」あり。
   H小原橋【北緯35度07分33秒 東経137度17分54秒】。ここで巴川左岸の東海自然歩道
     合流。7年前に、この付近を歩いた時、黍生山に登ったことがある。
   I足助八幡宮【北緯35度08分03秒 東経137度18分38秒】。足助八幡宮および隣接の足助
     神社の由緒はこちら
   J馬頭観音【北緯35度08分09秒 東経137度18分43秒】。三面八臂の座像で、たいそうりっ
     ぱな像である。明治の終わりになって、馬の背から馬車にかわると従来よりも大きな馬頭
     観音が町の入口に馬車組合(ここでは巴川組合)の人々によって建てられるようになった。
     すぐ、前には谷川の水を溜めた大きな石鉢「牛馬摂待水」が設けられている。
     隣には、芭蕉の句碑「馬おさへ ながむる雪の 朝(あした)かな」ある。これは足助の俳人
     板倉塞馬が慶応3年(1867)に建立したものである。
   J-1飯盛山【北緯35度07分57秒 東経137度18分58秒 標高254m】。4月には、中腹にカタ
     クリの花、山頂には桜が咲き、賑わう山だが、さすがにこの盛夏では山頂には誰もいなか
     った。
     平安時代末には、山頂に飯盛山経塚が造営されており、秋草遊兎双雀鏡・刀子などが出
     土している。明治初期まで、山頂には「嶽の宮」と称する小祠が祀られていた。
     また、ここには飯盛城が築城されていた。居館は山麓の香積寺境内で、土塁と帯曲輪で
     囲んでいる。足助氏二代重秀が鎌倉時代初頭に築いたといわれている。
     なお、香積寺の解説についてはこちら
      K西町の道標【北緯35度08分06秒 東経137度18分57秒】。ここは、飯田街道(伊奈街道)と
     鳳来寺街道との分岐点で、道標には「右 ぜんこう寺道 左 ほうらい寺道」とある。年代は
     弘化2年(乙巳)と刻まれていたが、説明板には、なぜか弘化3年とあった。単なる間違い
     と思うが。
   L観音寺【北緯35度08分23秒 東経137度19分21秒】。寺は山の中腹にあり、観音菩薩座
     像、四天王立像などが安置されている。しかし、今は廃寺になっており、庫裏は今にも倒
     壊しそうで近寄れない。登り口には、もみじの名所とあったがほとんど手入れがされておら
     ず、四阿の周囲は草に覆われている。
     本堂のあるところは足助七城のひとつ大観音城の居館跡と考えられ頂上付近には城塁も
     残っている、との説明板があったが、頂上は未確認。
   M松平家御廟所【北緯35度08分21秒 東経137度19分47秒】。宝珠院の広い駐車場を挟ん
     で東側にある観音堂の裏にあり、目立たないので訪れる人も少ないようだ。多分、普段は
     きれいにしてあると思われるが、草の繁茂する時期でもあり、掃除が間に合わないという
     感じだった。代々の墓の中でも、松平乗真夫婦の墓石の大きさにはびっくりした。
   N馬頭観音・十王堂【北緯35度08分30秒 東経137度20分27秒】。十王堂の前には大きな
     馬頭観音が祀られていた。台座には「賀茂組」と刻まれていた。
     また、十王堂には地蔵菩薩と閻魔王をはじめとする十王が祀られている。享保年間(1716
     〜1736)に創建されたと伝えられている。
   O萩野の道標【北緯35度08分49秒 東経137度20分56秒】。萩野小学校南側にある八幡神
     社の角に隠れるように立っている。天保6年(1835)の造立で、「右 こんひら江三十丁、
     ほうらいじ江九り あきは江二十り」、「左 ぜんこうじ江五十九り」と彫られている。
       この付近(標高約200m)から、そろそろ上り坂を意識しはじめ、一路777mの伊勢神峠
     を目指す。
   P津島神社下の石仏【北緯35度09分17秒 東経137度21分50秒】。神社の前には、道祖神
     や他の石仏が立っている。その脇に神社へ登る途中の一段高いところにある池から水が
     流れ落ちている。下には牛馬の飲み水用の石鉢があった。
     神社への登り口には、弘化□年の石仏が一体。
   Q八柱神社【北緯35度10分24秒 東経137度23分00秒】。神社前には、中馬街道につい
     ての説明板が立っていた。それによると、
     「(前略)・・・この道は明治20年代まで馬が通った道で、道沿いには石仏が建てられ旅
     人の宿もありました。八柱神社の境内には夜念仏供養塔、宝筺印塔があり、加茂一揆が
     鎮圧された場所としても知られています」
   R熊野神社【北緯35度10分13秒 東経137度23分54秒】。上述の岩倉神社の農村舞台と比
     較のため、立ち寄った。
     舞台の屋根は最近葺き替えたらしく、新しい銅板でくるんだ鬼瓦がまぶしいい。ひさしの下
     には大木を引いた一枚板に「明川座」と彫られている。舞台の一部も修理中で、伝統を守
     るための努力をうかがい知ることができる。
     境内の説明板によると、
     「明川熊野神社境内にある農村舞台は間口15.89m、奥行7.37mあり、足助町内に現
     存する19棟の舞台中、最大のものである。
     農村舞台は江戸時代末期から明治・大正期にかけて地狂言(歌舞伎)を行ったもので、当
     時のおもかげが偲ばれよう。
     また、この明川は足助と武節(稲武町)の中間にある中馬道の宿場として石垣や家並みに
     当時の反映を知ることができる。」
     ここから国道へ戻った地点から1km進んだあたりから伊勢神トンネルまでの区間は歩道が
     なく、大型車が通るたびに危険回避のため路肩に立ち止まる状態だった。
   S伊勢神峠【北緯35度10分20秒 東経137度25分46秒 標高 777m】。旧トンネルの70mほ
     ど手前を自然歩道の案内板に従って急な山道を登る。途中で道は二叉に分かれ、右へコ
     ンクリートで固めた狭い道を行くと伊勢神宮遙拝所へ、左へ進むと切り通しになった中馬の
     難所「伊勢神峠」へ。そこには数体の石仏と八百比丘尼の大杉があり、一服して往時の様
     子をあれこれ想像するには最適の場所である。
     旧伊勢神トンネルは長さ308m、明治30年に開通した。その後自動車の大型化に伴い、
     昭和35年に新伊勢神トンネルが開通した。長さは1245m。 昭和40年頃に「伊勢神トン
     ネルは女の幽霊が出るので、観光バスの運転手はとてもいやがる」という話を聞いたこと
     がある。そのまま噂を引きずって、今でも神霊スポットとして有名である。
     旧伊勢神トンネルは閉鎖されていないので、乗用車なら通行可能。ただし、照明はない。
     新トンネル内は歩道がなく、車の通行量が多く、懐中電灯持参でも通行は危険である。
     なお、この峠は東海自然歩道(恵那コース)が走っている。
   
    【参考資料:愛知県歴史の道調査報告書8<飯田街道・足助 街道>(愛知県教育委員会文
     化財課 編集)、Web site「ちまき亭」さんの名古屋近郊の旧街道のルート】

    
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