名古屋市西区歴史散策路(城下町コースほか)


名古屋市のホームページで紹介されている市内の歴史散策路のうち、西区歴史散策路の一部「名城いぬい散策コース」および「城下町散策コース」にほぼ沿ってを歩いた。
戦火を免れただろう思われる地区には、昔ながらの長屋や古い木造のアパートがまだ残っており、一方では余裕のない土地に建てた三階建ての住宅などがひしめいており、古いものと新しいものが混在し、なかなか興味のある地域が含まれていた。
なお、史跡等の解説文の一部は上記のサイトから引用したものである。


コース:地下鉄浅間町駅(@の地点)→0.2km→法蔵寺(Aの地点)→0.2km→浅間町駅(@の地
     点)→0.6km→堀川堀留跡の碑(Bの地点)→0.2km→辰ノ口水道大樋(Cの地点)→
     1.4km→興西寺(Dの地点)→0.7km→浄心寺(Eの地点)→1.2km→ しゃんしゃん馬の碑
     (Fの地点)→0.1km→丹羽長秀邸址(Gの地点)→0.1km→旧志水家玄関車寄(Hの地
     点)→2.2km→産業技術記念館(Iの地点)→0.8km→地蔵院(Jの地点)→1.3km→多
     賀神社(Kの地点)→0.9km→子守地蔵(Lの地点)→0.7km(浅間神社立ち寄り)→五条
     橋(Mの地点)→0.4km→地下鉄丸の内駅(Nの地点)
日付:平成22年12月24日(金)
天候:晴れ
所要時間:2時間40分
歩行距離:11.0km

    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/10000)      表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
  い。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
   点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
 (3)高度表示については、約5m〜10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい る)。
 (4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

   @地下鉄浅間町駅【北緯35度11分01秒 東経136度53分26秒】。丸の内線のこの駅からス
     タート。
     この駅のすぐ東にある富士浅間神社は、応永5年(1398)三谷源太夫が富士塚町(現、東区
     内)に勧請。慶長15年(1610)名古屋城築城工事の普請場となったため、現在地に移った。
   A法蔵寺【北緯35度11分02秒 東経136度53分18秒】。この寺には、貞享4〜5年頃(1687
     〜88)、芭蕉がこの辺りの田中の里で詠んだ「刈跡や早稲かたかたの鴫の声」の句が刻ま
     れた「鴫塚」がある。初代の天明7年 (1787)建立の句碑は浄心の周泉寺にあったが、戦災
     で壊滅した。現在あるのは安政3年(1856)冬・腥湖、三四らの発起により建立されたもの
     だが、判読困難であった。昭和52年市指定文化財史跡に指定。
     なお、周泉寺には同じ句が刻まれた比較的新しい句碑が建っている。(写真
   B堀川堀留跡の碑【北緯35度10分57秒 東経136度53分43秒】。朝日橋の東詰めにある碑
     にはつぎのような説明文が彫られている。
   C辰ノ口水道大樋【北緯35度11分00秒 東経136度53分45秒】。
     寛文3年(1663)2代藩主光友は杉村用水と幅下上水を作らせた。これは名古屋初の水
     道で、城池・用水・飲用を兼ね、勝川(現 庄内川)から取水し、名古屋城北の御深井御堀
     まで水路御用水を開削し、幅下方面へ木樋(配水管)で配水した。昭和55年(1980)と
     56年(1981)に、当時の水道基幹の木樋が発掘された。
     この樋は巾下御門枡形の北にあり、樋の両側は石で組まれ、底は南蛮たたきでできてい
     た。
     東に外堀用の立切(水止め)があり、これは外堀の水位を一定に保つためであった、西に
     は大幸川(現 堀川)への切石の銚子口があり、常に滝となって落ちていた。
     今は、老木の側のお堀側に、鉄柵の奥に土嚢が確認できるのみ。
   D興西寺【北緯35度11分29秒 東経136度53分38秒】。慶長14年(1609)に名護屋村御深
     井紅葉矢来内(現 名城公園)より名古屋城築城のため北鷹匠町(現 城西二丁目)へ移り、
     さらに正保2年(1645)藩祖義直よりこの地を賜り移建された。
     元禄12年(1699)藩主綱誠(つななり)の薨去(こうきょ)以来、徳川家代々の位牌が安置
     されており、また葵の紋を許されていた。
   E浄心寺【北緯35度11分33秒 東経136度53分28秒】。浄心交差点の北東の角にある曹洞
     宗の寺で、俗に浄心観音堂という。その前には「江川の碑」が建っている。
     文化8年(1811)旧寺の跡に建立。本尊如意輪観音の他に岩塚より薬師如来を招請して
     創建。開山は寂照禅師。
     また、この寺の東北東に200mのところには蜂谷宗意宅跡がある。しっとした閑静な民家
     で現在は20世家元蜂谷宗玄氏の香道教室になっており、門の前に説明板が立っている。
     蜂谷宗意は享和3年(1803)に京都に生まれ、志野流第15世を継承。明治維新の混乱を避
     け名古屋に移住し、香を焚いて香りを聞き分ける日本独特の芸道香道を伝えた。
   Fしゃんしゃん馬の碑【北緯35度11分35秒 東経136度52分59秒】。白山神社のすぐ東にある
     この碑の隣に次のような説明板がある。
     「将棋の駒の形をしているが、こういう駒の形をした碑は、元禄時代か、その後しばらくたっ
     た時代のものであろうといわれている。
     (由緒)
     昔、戦国時代に、白山社の東に、児玉という姫の家があり、他の娘と一緒に押切へお針の
     稽古に行く途中、走ってきた馬に突き当たったのがもとで死んでしまった。しかし、連れの
     娘 たちはその馬の姿が見えなかった。
     その後、児玉村から徴発された馬が戦死したという知らせがあったので、あれはその馬の
     霊が帰ってきたのだということになって碑を建てて馬の霊を祭ったという。
     歯痛のときにこの碑をお参りするとなおると聞き伝えもある。(児玉白山社氏子総代会)」
   G丹羽長秀邸址【北緯35度11分33秒 東経136度52分57秒】。児玉白山神社からまっすぐ南
     へ70mほど進むと大きな碑が建っている。
     丹羽長秀は織田信長の重臣で、安土城の総奉行になった。天文4年(1535)丹羽長政の
     二子として児玉に生まれる。天正10年(1582)本能寺の変後秀吉と結び、光秀を滅ぼす
     など、数々の武勇をあげた。天正13年(1585)に51歳で自害した。
   H旧志水家玄関車寄【北緯35度11分32秒 東経136度52分57秒】。志水甲斐守屋敷玄関車
     寄せ部は、明治初年に名古屋城三の丸から移築。また、庭内にある風信亭は、江戸中期
     から名古屋城二の丸庭園にあったと伝わる小亭で明治 2年(1869)庭園の廃止に伴い、保
     存を念ずる大矢氏が買い受けた。いずれも名古屋市文化財である。
     300m南にある観音寺は、慶長18年(1613)豊淳和尚が創建。本尊の聖観音像は2代
     藩主光友からの寄贈という。丹羽長秀作といわれる韋駄天像がある。
   I産業技術記念館【北緯35度10分55秒 東経136度52分35秒】。明治29年(1896)国産初
     の動力織機を完成した豊田佐吉は引き続き自動織機を研究するために、大正元年(19
     12)にこの地に工場を建て、大正13年(1924)に自動織機を完成した。さらに大正15年
     (1926)には、刈谷に豊田自動織機製作所を設立し、昭和12年(1937)にトヨタ自動車
     が分離独立した。
     このような歴史に基づき、トヨタグループ13社が協同して、トヨタグループ発祥の地である
     旧トヨタ紡織本社工場跡に残されていた建物を貴重な産業遺産として生かしながら繊維
     機械や自動車などを展示して記念館を設立したものである。
     すぐ南側の「ノリタケの森」とともに見所満載の産業遺産である。
   J地蔵院【北緯35度10分55秒 東経136度52分58秒】。もと、輪ノ内町(現 名駅2丁目)にあ
     ったが道路拡張のため現在地に移った。門前の地蔵は俗に「夜中地蔵」とか「身替地蔵」と
     かいわれている。
     夜中地蔵の由来は、ある夜忽然といずこからともなく移ってきたという伝説から、また身替
     地蔵は、近くの東海道線の沿線で轢死者が多かったことから事故を防ぐのを祈念して名付
     けられたという。
     すぐ北側の桜木公園には、いささか場違いな感じで馬頭観音観音が祀られている。
     また、寺の南側の広い空地には豊田合成名古屋工場(2000年に生産活動停止)があっ
     た。その昔は豊田職工場(明治41年建設)があった場所だ。
   K多賀神社【北緯35度10分37秒 東経136度53分17秒】。円頓寺商店街の中にあり、延命と
     縁結びの神。神社には重軽石がある。
     当地に分祀奉斎されたのは明治の中頃。現在の社殿は昭和32年に改修されたもの。
   L子守地蔵【北緯35度10分32秒 東経136度53分32秒】。四間道から細い路地を入ったとこ
     ろに祀られている。
     宝永7年(1710)の作と言われる。その後、事故により地中に埋もれ約120年前現在の
     御堂の20m南に井戸を掘った際に発見され御仏の御名にあやかり、子守地蔵尊と呼ばれ
     近隣の信仰を得ている。
     明治28年現在の御堂が再建され今日に至る(昭和53年 子守地蔵尊運営委員会)。
   M五条橋【北緯35度10分34秒 東経136度53分37秒】。この橋は慶長15年(1610)に清洲
     越しとともに名古屋に移された橋である。昭和13年(1938)の橋の改築で取り外されて、
     現在は名古屋城に保管されている擬宝珠には、「五条橋慶長七年壬寅六月吉日」(1602)
     と記されていることから、時の清洲城主松平忠吉が築造した橋であることがわかる。
     さらに昭和61年に修景工事が行われた。
   N地下鉄丸の内駅【北緯35度10分32秒 東経136度53分48秒】。今回ウォーキングのゴール
     地点。
   
    【参考資料:堀川端ものがたり(名古屋市中区役所 地域振興課)、区制90周年記念「西区
     の史跡90選」(特色あるまちづくり西区研究委員会 代表者 蜂須賀半一)】
   
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