名古屋市西区の史跡散策路(庄内緑地周辺コース)

名古屋市のホームページ「西区歴史散策路」を参考にしながら、庄内緑地公園駅を起点にその周辺を散策した。岩倉街道、稲生街道については予備知識がなかったがとても興味深かった。
歩く道すがら、しばしば地蔵堂・観音堂を見かけたが、いかにこの地方の人々が庄内川の洪水を恐れていたかという証拠だろう。


コース:@の地点(庄内緑地公園駅)→1.1km→Aの地点(星神社)→0.4km→Bの地点(諏
          訪神社)→0.3km→Cの地点(長善寺)→0.5km→Dの地点(東雲寺)→0.6km→Eの
     地点(五所神社)→0.2km→Fの地点(願主寺)→0.3km→Gの地点(道標)→1.0km
     →Hの地点(西方寺)→0.4km→Iの地点(小田井城跡)→0.8km→Jの地点(宝琳
     寺)→0.5km→Kの地点(白山神社)→0.6km→Lの地点(新福寺)→0.4km→Mの
     地点(宗圓寺)→0.2km→Nの地点(白山神社)→0.4km→Oの地点(庚申塚)→
     1.0km→Pの地点(伊奴神社)→1.0km→Qの地点(地下鉄庄内通駅)

日付:平成22年4月24日(土)
天候:晴れ
所要時間:約2時間30分(休憩を含まない)
歩行距離:9.7km

    コース地図を開く  ここをはじめてクリックするとプラグインのインストール画面が
            (初期値は1/6000)       表示されるので、「はい」をクリックする。不具合が発生した
                                 場合はこちらの「8」参照

                                 なお、念のため他のウィンドウをすべ閉じておくこと。


  (移動軌跡データファイルのみの呼び出し方法および地図の利用上の留意点)
 
1.この上にカーソルを当て、右クリックで「対象をファイルに保存」を選択し、デスクトップに「移動の軌跡
  データ」を保存します。ここでは、そのファイルは開かないでください。

2.国土地理院の電子国土ポータルへジャンプする。
3.国土地理院のプラグインのインストール画面が表示されたら、「はい」を選択する。
4.小さな日本地図が表示されるので、「ファイルを開く」(ボタンは画面右側の作図パネルの下部に隠れている)で、
  先ほどデスクトップに保存したファイルを指定して、それを開くと、地図の上に「移動の軌跡」が合成される。
5.この状態では、まだ地図の縮尺が小さいので、縮尺スケールが600mほどまで拡大して利用します。地図の表示
  窓が小さいので見にくいが、印刷結果はとても鮮明です。不要になったら、デスクトップのファイルは削除してくださ
  い。
  地図の呼び出し方について、詳しくはこちら

6.留意点
 (1)地図上の赤線はGPSよる移動の軌跡を、手書きで地図に転記したもので、実際の軌跡データとは若干の誤差が
   ある。
 (2)上記地図の経緯度線は「世界測地系」(GPSではWGS 84)に従い、目安として手書きで表示したものであり、各地
   点の表示は「秒」までに止めた。青線の間隔は10秒(横は約250m、縦は約300m)ごとである。
 (3)高度表示については、約5m〜10mほどの計測誤差がある(ほとんど低めに表示されてい る)。
 (4)地図と緯度経度の関連付けをより明確に知るにはカシミール3Dのホームページのフリーソフトを利用されたい。

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(各地点の説明)

   @地下鉄庄内緑地公園駅【北緯35度12分54秒 東経136度53分13秒】。この駅は昭和59年
     6月開業。
     一方、公園は小田井遊水地を利用したもので、庄内川の水位が一定以上上ると公園内に
     川の水が入ってくる仕組みになっている。
     緑地公園は昭和61年に開園した。噴水、芝生広場、サイクリングロード、ボート池などが
     ありとても広い公園である。
   A星神社【北緯35度12分53秒 東経136度52分53秒】。仁和年間(885〜888年)にこの地の
     付近に住んでいた大江音人の子孫により社が建立されたが、弘安3 年(1280 年)の戦火
     によって社殿は焼失。その後、右近中将藤原朝臣実秋によって復興されたと伝わる。
     後になって、中国から七夕の話が伝わり、庄内川を天の川に見立てて牽牛星と織姫星を
     祀るようになったという。
     神社南側の堤防には4〜5本の大きなムクノキがある。
   B諏訪神社【北緯35度12分59秒 東経136度52分54秒】。小さな神社で、境内に地蔵堂あり。
     東隣は門の雰囲気からして普通の民家かと思ったら、これが大聖院?
   C長善寺【北緯35度12分55秒 東経136度52分46秒】。本尊は阿弥陀如来。創建は不祥。
     佐々肥後守成政の菩提寺である。また、美濃国九条城主・織田信盛の菩提寺でもある。
     本堂の屋根のカーブが美しい。
   D東雲寺【北緯35度12分46秒 東経136度52分45秒】。臨済宗妙心寺派龍光山東雲寺。創建
     は明応元年(1492)、開基は小田井の城主織田常寛である。境内には宝永2年(1705)
     に建立した常寛公碑、平手政秀の首塚などがある(庄内川原で自刃したとの説あり)。
     山門横には馬頭観音堂が祀ってある。
   E五所神社【北緯35度12分43秒 東経136度52分42秒】。愛宕社、熊野社、津島社、神明社
     天神社の5社が祀られているので五社神社という。
     小田井城主織田藤左衛門寛維が天文14年(1545)五社宮を修復した棟札が残っていて
     他に江戸時代の棟札は、寛永11年(1634)以下、31枚が残され保存されている。濃尾
     地震(明治24年)により拝殿倒壊、26年10月再建された。
     境内には、他に稲荷社、金比羅社、秋葉社、国府宮社の末社が祀られている。
   F善光寺別院願主寺【北緯35度12分46秒 東経136度52分41秒】。寺伝によれば天長6年
     (829)疫病の流行の時に、越前百木田澄純法師が薬師如来を安置した堂を建てたことに
     始まるという。天正元年(1573)秀純法師の時、小田井城主織田又六郎が七堂伽藍を寄
     進し偉容を誇ったという。現在は旧本堂の規模を残しながら鉄骨造の現代的外観に生まれ
     変わった。
     門前では、ガルダ(インド神話の神鳥)像、トルハルバン(韓国済州島の守護神像)が出迎
     えてくれる。
     なお、通称善光寺というのは、明治42年に信州善光寺より分身を迎えて、昭和5年に如来
     堂を建立したことによる
   G岩倉街道道標【北緯35度12分54秒 東経136度52分38秒】。この辻に岩倉街道の道標が
     立っている。寛文7年(1667)名古屋城下から岩倉へ至る「岩倉街道」が通じ、枇杷島の
     青物市への搬送路として賑わい、青物市の帰りに味噌・油などの生活品を購入したとい
     う。
     中小田井の町は町並み保存地区に指定されていおり、「歴史のみち整備」として街道筋の
     面影や特色を生かすよう整備が進められている。
   H西方寺【北緯35度12分28秒 東経136度52分33秒】。市境を越して清須市になるが(清須
     市西枇杷島町小田井)、西区の史跡コースに含まれている。
     山号は渡河山といい、親鸞聖人の木曽川渡渉に由来する。
     織田氏の小田井城築城に際し、現在地へ永禄8年(1565)に移されたと伝えられている。
     その後、明治24年(1891)の濃尾地震で山門を残し倒壊したが、大正9年再建された。
   I小田井城跡【北緯35度12分24秒 東経136度52分24秒】。所在地は清須市西枇杷島町古
     城2−18−6。
     織田敏定以来、子孫が居城したが、末孫の津田忠辰(慶長19年没)が最後の城主といわ
     れている。廃城の年代は不詳。
     もともとの城跡は下小田井の城前集落の西、名鉄犬山線の西300mほどの田圃の中にあ
     ったといわれるが、今は開発で消滅した。以前は3mほどの高さがあったそうだが、名鉄敷
     設の際、削り取られた。
     今は、城跡公園内に「小田井城跡」の碑が建っている。碑の裏には「織田敏定斯波氏の守
     護代となり尾張下四郡を管し数世之れに居り後羽柴秀吉の為に遂はれ廃城となる」とあ
     る。
     この先の新名西橋は昭和39年に完成した。同所に平成19年12月に名古屋高速6号線
     の橋が設けられ、公募により「赤とんぼ橋」と命名された。
   J宝琳寺【北緯35度12分15秒 東経136度52分44秒】。寺伝によれば往古は天台宗で、来福
     寺といっていたが、創建時期は不祥。永禄元年(1558)に曹洞宗に改宗。寺号も宝琳寺
     に改めた。もとは庄内川堤内元屋敷にあったが、慶長19年(1614)に上ノ切に移り、その
     後現在地にへ移った。
   K白山神社【北緯35度12分20秒 東経136度52分56秒】。創建年は不祥だが昭和51年社殿
     改築の時、神殿より永享2年(1430)の鎮座の棟札が発見された。
   L新福寺【北緯35度12分23秒 東経136度53分16秒】。天台宗。寺伝によれば、聖武天皇の
     天平年間に勅命により行基が創建したという大寺であった。
     慶長19年(1614)の庄内川の氾濫に遭った後、七堂伽藍の古刹であった新福寺は村(新
     福寺)と共に現在地に移った。
     村名の由来もこの寺より起こった。寺の北裏に幹周り3.5m、高さ17mの樹勢旺盛なシイの
     大木がある。「擂鉢(すりばち)池の大蛇」の伝説がある
   M宗圓寺【北緯35度12分29秒 東経136度53分21秒】。創建時期は不祥。享禄2年(1529)
     宣叟曇周和尚が再建。本尊は木造釈迦牟尼仏座像。以前は庄内川堤防内にあったが、水
     難が多く慶長19年(1614)の氾濫を契機に、村の集落ともども現在地に移った。なお、本
     堂は昭和58年再建。
   N白山神社【北緯35度12分29秒 東経136度53分26秒】。境内には名塚城(砦)跡の説明板
     が立っていた。そによると、「織田信長が父信秀の後を継いだころ、有力な家臣であった林
     通勝やその弟通具および柴田勝家らに謀反の動きがあった。信長は弘治2年(1556)8
     月22日、急いでこの地に砦を築かせ佐久間盛重に守らせた。2日後には稲生(現西区)で
     信長本隊と勝家が戦い、信長はこれに勝利した。織田一族の内紛を治めた信長は、以後
     尾張の支配権を確立していくこととなった。」とある。
   O庚申塚【北緯35度12分22秒 東経136度53分26秒】。ここには「稲生原古戦場跡」の案内
     板が立っている。
     織田家の家臣柴田勝家、林光春らは末森城にいた織田信行を擁立し、清須の兄・信長を
     討とうとして、弘治2年(1556)8月24日、この地で戦いを挑んだが、清須側の勝利となっ
     た。勝利した信長は尾張の統一に大きく踏み出した。
     ここにある庚申塚は、この合戦の死者を祀ったものと言われるが、本来は庚申信仰の名残
     である。
     庄内通へ出て、北上すると庄内川橋、横切って地蔵堂の前を通り左折すると、稲生街道
     である。
   P伊奴(いぬ)神社【北緯35度12分30秒 東経136度53分51秒】。延喜式神名帳に山田郡伊
     奴神社とあり、尾張本国帳には従三位伊奴神社とある。
     須佐之男命、その子大年神と妃伊奴姫神を主神とする。天武天皇の御世に、このあたりか
     ら稲を献じ、それに併せて神を祀ったのが創始と伝えられている。
     また、稲生町の地名の起こりとも言われている。
     境内にシャシャンポ(ツツジ科)の大樹があり、昭和55年に緑地保全地区に指定されてい
     る。また、古木を神格化した白龍社、大杉社がある。
     帰りは惣兵衛川に沿ってQの地点へ向かった。
   Q地下鉄庄内通駅【北緯35度12分16秒 東経136度53分28秒】。今回のゴール地点。


    【参考資料:名古屋の史跡と文化財(名古屋市教育委員会編)、史跡散策 愛知の城(山田
            柾之著)、西区の歴史(山田寂雀・西岡寿一著)】

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